第243話『君と僕と弟①通じる世界』
言葉は、世界をつなぐための橋。
けれど、その橋を渡らなくても、
心が届く瞬間がある。
アスとタケル、そして弟のシン。
三人の間には、言葉を超えた小さな“理解”が
ゆっくりと息づいている。
『君と僕と弟① 通じる世界』は、
言葉の外にある「通じる」という奇跡を描いた物語。
午後の光のように静かであたたかな時間が流れる。
午後の光がアスの家のリビングに斜めに差し込み、床に長い影を落としていた。
窓際の棚には色とりどりの本や小さな模型が並び、静かな空気を柔らかく満たしている。
タケルはソファに小さく座り、来る前に買ったポストを口に入れて軽くかじりながら、指で包装紙をくしゃくしゃと丸めていた。
手元で小さな動作を繰り返しながら、視線はアスとシンの動きに向けられている。
アスはソファの隣に座り、手元のリモコンを操作してシンの好きな曲を探していた。
ボタンを押す指先が軽く揺れ、目は画面とシンを交互に見ながら、曲が流れ始めるタイミングをそっと確認している。
微かにスピーカーから聞こえる旋律が、部屋の空気にほんのり溶け込んだ。
「ぼく、喉が乾いてきた」
タケルの声は、遊びに夢中になったあとの少し疲れた響きだった。
アスはにっこり笑い、小さく言った。
「ならお願いしよっか?」
タケルは首をかしげる。
「え?」
「シン」
呼ばれた弟・シンは、アスの方をちらりと見上げる。
目が合うと、言葉ではなく静かな理解の波紋がゆっくりと広がる。
アスは落ち着いた声で続けた。
「コップ持ってきて。黄色、コップ」
シンは小さな足で静かに台所へ向かい、棚から黄色のコップを取り出す。
手を少し止めて持ち方を確認する仕草があり、そっとアスに手渡す。
アスは手のひらで頭を軽く撫でた。
「ありがとう、シン」
シンは満足そうに微かに笑い、床に広げた色とりどりの本のページに手を伸ばす。
指で端をなぞるようにめくり、色の並びを確かめる。
ページをめくる手の速度や角度が時々変わり、彼なりの楽しみを確かめる小さな動きになっている。
タケルは目を見開き、思わず声を漏らした。
「凄い!通じるようになってる。成長したね!」
アスは優しく微笑み、シンの肩や瞳のわずかな動きに目を向けた。
その動きだけで、今どのくらい理解しているかがわかる。
しかし、言葉にしなくても通じることもあれば、彼の世界の感覚はこちらとは少しずれている。
「シン、冷蔵庫からリンゴジュース持ってきて」
アスが言うと、シンは目で確認し、ゆっくりと台所へ歩き出した。
冷蔵庫を開け、ジュースを取り出すと、そっとアスのもとに戻る。
「タケルに渡して」と言うと、差し出し、また床の本に手を置いた。
タケルは嬉しそうに受け取り、思わず笑顔になる。
「わぁ、凄い!言えなくてもぼくをタケルだってわかってくれてるんだね。嬉しい…ありがとう、シン」
シンは満足そうに微かに笑い、再びページをめくり、色を小さく呟きながら指を滑らせていった。
アスは横で静かに微笑む。
「言葉じゃなくても世界はちゃんと通じる。小さな行動の中に秩序と理解がある」
午後の光はゆっくりと傾き、床の影が長く伸びる。
小さな部屋の中で、弟の成長は静かに、でも確かに、心に優しく残った。
通じるということは、
言葉の意味を知ることではなく、
相手の世界のリズムに耳を澄ますことなのかもしれない。
シンの動き、アスのまなざし、
そしてそれを見つめるタケルの驚き。
そのすべてが、一つの音楽のように響き合っていた。
世界は、言葉だけでできているわけじゃない。
沈黙の中にも、やさしく確かな会話がある。
――それを見つけた午後の光は、
タケルの心にも、そっと残り続けていた。




