第242話〜龍賢の視点『愛につきまとうもの』
人を想うということ。
それは、温もりを求めながら、同時に痛みを抱く行為でもある。
龍賢の胸の奥に渦巻くのは、愛の静かな苦しみ。
手放すことも、抱きしめることもできない思い。
彼の前に現れた“過去を知る人”の言葉は、
その心の奥底に沈んでいた何かを呼び覚ます。
『愛につきまとうもの』——
愛の美しさと哀しさ、その両方を静かに見つめる、龍賢の物語。
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「和尚さん?……龍賢さん?」
「……あ、すみません。」
意識がふっと遠のいていたのに気づき、龍賢は姿勢を正した。
月参りで訪れていた川瀬さん宅。御経をあげたあとの静かな居間に、紅茶の香りが漂う。
「紅茶でも、いかがですか?」
「頂きます。」
湯気の立つカップが目の前に置かれる。
川瀬さんは目を細め、柔らかく微笑んだ。
「それにしても、大きくなったわね。」
懐かしさを滲ませる声に、龍賢も自然と口元を緩めた。
子どもの頃、何度か足を運んだことのある家。
その時も、川瀬さんは子どもを大人と同じように扱い、着物姿で、いつも凛とした人だった。
今の彼女は、白髪を横に流し、ワンピースにストールを重ね、胸元にはアンティークのブローチが光っている。
指先に塗られた真紅のネイルが、ひときわ印象的だった。
じっとその手元を見ていたことに気づかれ、川瀬さんは小さく笑う。
「年甲斐もなく濃いネイルよね。」
「……いえ、とても素敵です。」
紅茶を口に運びながら龍賢は答える。
川瀬さんは自分の爪を見つめ、かすかに頷いた。
「ありがとう。……不思議とね、落ち着くの。」
その言葉に、彼女の中に流れる歳月を垣間見る気がした。
「川瀬さん。昔は着物をよく着られていましたよね。今は……?」
「もうね、手放してしまったの。」
微笑みの奥にわずかな寂しさが滲む。
龍賢は目を伏せ、静かに紅茶に視線を落とした。
「……円さん。」
唐突に呼ばれた名に、龍賢は顔を上げる。
川瀬さんは懐かしむように微笑んでいた。
「そっくりなのよ。円さんに。……今日、最初にあなたを見た時、円さんが戻ってきたのかと思ったわ。」
その声音に宿る遠い追憶。
龍賢はふっと笑い、「よく言われるんです」とだけ答えて、窓の外に視線を逃がした。
沈黙の後、川瀬さんの声がまた響く。
「龍賢さん、結婚されるんでしょう?」
「……そうですね。」
返事をしながら、胸の奥がざわついた。
一週間前。
露葉を知りたくて、彼女の母が最期を過ごした病院へ行った。
彼女が腰かけていたというベンチに、何時間も座った。
光の中で、彼女の痛みの残り香を感じ、自分の知る露葉の浅さに打たれた。
彼女を失うことが怖い。
けれど、それ以上に、彼女の抱えてきた悲しみに胸が裂かれる。
――恵まれた環境に育った自分とのあまりの違いに、言葉を失った。
それからまだ、彼女に会いに行けずにいる。
ただ、会いたい――露葉に。
「龍賢さんには、幸せになってほしいの。」
川瀬さんの声が、柔らかく、そして深く響いた。
「円さんは……結婚前に亡くなったから。」
「結婚前……?」
龍賢は思わず問い返す。
川瀬さんは静かに頷いた。
「ええ。ご家族は叔父さまのことを語られないのでしょう?」
「……はい。」
「そう……」
川瀬さんは目を細め、遠いものを見つめるように言った。
「だから、ずっと前に進めずにいるのね。」
そして小さく息を吐き、声を落とす。
「円さんはね、私の妹と婚約していたの。……でも、円さんが亡くなって、妹はそのあとを追って逝ってしまったの。」
時が止まったように、部屋の空気が凍る。
龍賢は紅茶の残りを見つめ、ただ黙っていた。
――帰り道。
海沿いを走る車の窓を打つように、雪が舞いはじめた。
潮風は鋭く、頬を切るほど冷たい。
愛には、それぞれの形がある。
けれど、そのどれもが喜びより悲しみを強く抱えている。
なぜ愛は、こんなにも苦しいのか。
なぜ想う心には、苦しみばかりがつきまとうのか。
灰色の雲を映す海は、今日だけは、濁って見えた。
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愛は、しばしば幸福の象徴として語られる。
けれどその実、もっとも人を苦しめるのも愛だ。
相手を想うあまり、自分を見失い、
過去と未来の狭間で、心は揺れ続ける。
それでも、人は誰かを想わずには生きられない。
川瀬さんが語った“円さん”の物語は、
龍賢の中に潜む「愛の記憶」をそっと照らした。
悲しみを越えて、それでもなお、
誰かを想うということの尊さを、
龍賢は静かに受け取ろうとしている。
——愛とは、光のあとに残る影。
その影の深さが、人を人にするのかもしれない。




