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第239話『執着の話①』

冬の午後、風は冷たくても、

部屋の中にはかすかな香りが漂っている。


目に見えないのに、懐かしい記憶をそっと呼び覚ますもの。

香りは「今」と「昔」のあいだに橋をかけ、

人の心を静かに揺らしていく。


タケルとアスの“執着”の話は、そんな香りからはじまる。



タケルは窓辺で小さな香水瓶を手に取り、そっと息を吸った。

「アス、なんで香りって、忘れられないんだろう?」


アスは机の上に置かれたノートを指で軽く叩き、ゆっくり窓の外を見やった。

「香りは目に見えないけど、空気を漂い、部屋の隅から心を過去に連れ去るんだ。時間の奥行きを揺らすようにね。」


タケルは体を少し前に乗り出して瓶を軽く振った。

「とらわれるって、執着のこと?」


アスは手を広げ、空気をかき混ぜるように動かす。

「そう。執着は心があるものに引き寄せられて、自由に漂えなくなること。香りにとらわれると、今を歩きながらも、過去の道を行き来してしまう。」


タケルは目を閉じ、香りに顔を近づける。

「でも、楽しむのと執着するのは違うんだね。」


アスは息を吹きかけ、香りを空間にそっと散らす。

「うん。楽しむのは、遠くの花が風に揺れるのを眺めるようなもの。香りは指先をかすめ、自由に空間を漂う。」

「執着は?」

「握りしめてしまうこと。香りを手の中だけで感じ、空間や時間の広がりを忘れてしまうんだ。」


タケルは瓶を机にそっと置き、窓の外の風を感じた。

「なるほど…香りは、時間と空間を教えてくれるんだね。」


アスは頷き、手をひらりと動かして漂う空気を追うようにした。

「そう、だから香りに心を預けると、ちょっとだけ自由に、ちょっとだけ過去を歩けるんだよ。」



---





香りは消える。

けれど、完全にはなくならない。

空気の奥に、記憶の奥に、

微かに残り続ける。


執着とは、その残り香に

自分を閉じ込めてしまうこと。

でも、風を感じながら手をひらけば、

香りも、記憶も、自由に流れ出す。


忘れられないものを

無理に忘れようとしなくていい。

ただ、その香りを

“風の中に返す”ことができれば、

きっとそれが、

ほんとうの「手放す」ということなのだろう。



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