第238話『川と海の交わる場所③』
川と海が出会うとき、水はまっすぐには混ざらず、しばらくのあいだ、淡い境を保ちながら揺れている。
アスと露葉のあいだにも、そんな見えない“境”がある。
でもその境は、風や波や沈黙の中で、
少しずつ、やわらかくほどけていく。
アスと露葉は、街の静かな路地を抜けて川沿いの道を歩き始めた。
落ち葉の上で靴がカサリと音を立てるたび、冬の空気がふたりの間に漂う。息は白く、風が頬や髪を優しく揺らす。
露葉は黒い髪をそっと手で整え、耳元の黒い石の耳飾りが光を反射して小さく揺れた。
アスは何気なくその揺れに目を止め、心の中で静かに微笑む。
川面には、夕陽が映ってオレンジ色の光がゆらゆらと揺れていた。
波紋が広がり、遠くの工場の白い煙と川面の光が重なって、ひそやかなリズムを作る。二人は言葉少なに、ただその光景に目を留めて歩いた。
露葉がふと立ち止まり、川の流れに手をかざすように視線を落とす。
「寒いけど…冬の川って、空気まで澄んでる気がする」
アスは少し前に立ち、風に顔をさらしながら頷いた。
「うん。冬の川は…時間まで止まったみたいだね」
橋を渡ると、川が海へとつながる場所に出た。波は押しては引き、砂浜を白く濡らしては戻る。
露葉は立ち止まり、波の音に耳を澄ませる。アスも横に立ち、足元の砂を踏みながらその音を聞いた。
しばらく波の揺らぎに見入っていた露葉が、不意に口を開いた。
「この前はごめんね」
アスは少し顔を上げて、風に吹かれる髪を押さえながら答える。
「うんん。ぼくじゃなくて兄ちゃんに言ってあげたら喜ぶかも」
露葉は一度アスを見て、目を逸らす。遠くの海を見つめ、静かに呟いた。
「そうね」
潮風が二人の間を通り抜け、波の音と砂の感触が時間の間隔をゆるやかに広げる。
沈黙がしばらく流れ、アスがそっと言った。
「お姉さんは今、川と海の間にいるのかもしれないね。でも海ってそんなに悪くない」
露葉はふっと肩の力を抜き、くすりと笑う。耳飾りの黒い石が夕陽の光に反射して揺れた。
「そうね…。今度…龍賢に会いに行くわ」
しばらく二人は言葉を交わさず、波のリズムに合わせて歩いた。冷たい風が頬を撫で、砂の感触が足元で微かに音を立てる。
光と影、波の揺らぎと街の静けさに包まれながら、ただ同じ時間を共に感じて歩き続けた。
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人はみな、どこかで「川」と「海」のあいだを生きている。
まだ流れの途中で、完全には混ざりきれない場所。
けれど、そこにこそ静かな美しさが宿る。
露葉が言った「ごめんね」も、
アスの言葉にふと滲んだ「許し」も、
どちらも流れの中でやがて海へと溶けていく。
それは別れでも終わりでもなく、“交わり”という名の変化。夕陽に染まる波のように、
ゆるやかで、優しい時間だった。




