第39話「しゃかいかけんがく」(後編)
誰も見ていない場所に、忘れられたように置かれているものがある。
けれど、そこに耳をすますと、たしかに何かが息をしている――そんな気がした。
社会科見学の最後、タケルはふと本堂の裏へまわった。
懐かしい細い石段と、使われていない井戸。
その横には、小さな観音堂――子どもの背丈ほどの、古びた木のお堂がある。
扉は閉じられているのに、その中から、**「ぽた…ぽた…」**と水の音が聞こえた。
タケルは立ち止まり、思わず息をのんだ。
――なにかが、まだそこに“生きて”いるような気がした。
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「懐かしいか?」
後ろから、兄の声。
黒い作務衣、少し痩せた肩。
「兄ちゃん……あの観音堂、まだあったんだ」
「うん。誰も使ってないけど、壊さないって、じいちゃんが」
「なんで?」
「“こわいから”だって」
兄はさらりと言う。
それが冗談なのか、本気なのか、よくわからない。
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タケルが本堂に戻る途中、ふと風に混じって――かすかにお経が聞こえた。
それはスピーカーやテープの音ではない。
人の声。
ゆっくり、丁寧に、一語一語を大事に置くような――
どこかで聞いたことのある声。
タケルは足を止め、声の方へと近づいた。
本堂の脇の控室。
そっと戸を開けると、そこにいたのは、じいちゃんだった。
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一人だけの仏間。
誰もいないはずなのに、香が炊かれている。
祭壇の上には、小さな白い箱。
おそらく――身寄りのない誰かの遺骨。
じいちゃんは、静かに、きれいに手を合わせ、声を出していた。
その声は、仏に向けたようでもあり、亡き人に向けたようでもあった。
タケルは何も言えず、ただその背中を見ていた。
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帰り道、アスがタケルに話しかけた。
「さっき、本堂の奥、変な音しなかった?」
「……水の音、観音堂のとこからも、してた」
「風もないのに?」
「うん。でも……なんか、こわいっていうより、遠い感じだった」
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タケルはバスの窓から、じいちゃんの寺をもう一度見た。
古くて小さくて、静かで――でも、どこか“見られている”気がする場所。
見えない誰かのために、お経をあげるじいちゃん。
誰にも気づかれずとも、風の音のように、そこにある祈り。
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夜、家で兄に聞いた。
「じいちゃん……ずっと、ああやって誰かのために祈ってるの?」
「うん。生きてる人より、亡くなった人のほうが、寂しいことが多いからって」
「……じいちゃん、こわいけど、優しいね」
兄は、少しだけ笑って答えた。
「どっちも、同じだよ。
ほんとうに優しい人は、少しだけこわいもんだ」
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その晩、タケルは夢を見た。
観音堂の扉が開いていて、中に誰かがいた。
でも顔は見えなかった。
ただ、水の音だけがずっと、ぽた…ぽた…と響いていた。
こわさとやさしさは、ときどき同じ顔をしている。
それに気づくとき、大人に少しだけ近づいた気がするんだ。




