第235話『海の記憶⑤』
夜の静けさには、不思議な層がある。
深く沈むような眠りと、波のように浅く揺れる眠り。
そのあわいに、見えない心の動きが映りこむ。
この物語は、アスの視線を通して描かれる“沈黙の会話”だ。
言葉のない世界でも、光と呼吸と微かな動きが、確かに「生」を語っている。
タケルは深く眠ったまま、助手席で小さく寝息を立てている。
車の窓から差し込む冬の光が、彼の肩や髪にそっと触れる。
タケルの母は少し困った顔をして、静かにブランケットをかけ直した。
アスは後部座席で本を開き、ページの端を指でなぞりながら、タケルの眠る姿をちらりと見やる。
外の街路樹は風で揺れ、車の屋根に雪がカサカサと落ちる音が聞こえる。
家に着くと、玄関のドアを開けた瞬間、小さな足音がタタタと駆け寄ってきた。
タブレットを片手に持ったシンだ。
「タッチ」
アスが手を差し出すと、シンも「タッチ」と答え、小さな手を合わせる。
タブレットからはゲームの効果音がかすかに漏れ、部屋に柔らかく響く。
最近のシンは眠りが浅く、夜中に何度も目を覚まし泣いてしまう。
そのせいで母は疲れ切って横になっていた。
「おかえり」
ベッドの上で微笑む母の顔は、疲れと優しさが混じり合い、柔らかく光っている。
「ただいま。母さん、部屋で寝てていいよ。シンはボクが見とくから」
「ありがとう、アーくん。なら少しだけ…」
母はふらふらと立ち上がり、ゆっくりと寝室へ消えた。
ドアが閉まる音と、かすかな床のきしみが、家の静けさを際立たせる。
リビングの床では、シンがコンセントや充電器の線を道路に見立て、小さな車を手で走らせている。
車が線の上をブーンと滑るたび、シンの顔が真剣にしかめられ、少しでも線がずれると眉をひそめて手を振る。
それでも彼の動きには一定のリズムがあり、まるで自分だけの世界を慎重に作り上げているかのようだ。
アスは椅子に腰かけ、シンの小さな世界をじっと見つめる。
タケルの深い眠りと、シンの揺れるような浅い眠りが、同じ部屋の中で静かに対比している。
アスの目に映るのは、安定した深みと、絶えず動く揺らぎ――二つの時間の流れだった。
誰かの眠りを見つめる時間は、
その人の奥にある静けさに触れる時間でもある。
タケルの深い呼吸。
シンの浅い波。
そして、その狭間でただ受け止めるアス。
「生きている」ということは、
たぶんこの三つのリズムがひとつの夜に重なることなのだろう。




