第234話『海の記憶④』
冬の海には、過去の声が眠っている。
それは波の音に紛れ、
誰かの記憶をそっと呼び起こす。
アスとタケルの母――
ふたりの視線が交わったとき、
時間の輪が静かに回りはじめた。
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海を見ながら歩いていたタケルのお母さんは、肩にかけたストールを潮風から守るように寄せ、ふと振り返った。
「なに?」
やさしく微笑み、その瞳には薄い冬陽を映したような穏やかな光が揺れていた。
アスはその目をひと呼吸だけ見つめ、それからすぐに波打ち際へ視線を移す。
「お母さんは、円って知ってる?」
彼女の足がふいに止まった。
瞳がかすかに揺れ、潮風に伏し目がちになる。
沈黙が長く伸び、波が寄せては返す音だけが、ふたりの間をゆるやかに満たした。
やがて、母は胸の奥から息をすくい上げるようにして、震える声をこぼした。
「……お父さんのね、お兄さんがエン兄さん。ずっと昔亡くなったけど、本当に素敵な人だったわ。どうして、アスくんがエン兄さんを知ってるの?」
アスはその問いに顔を向けず、ただ海の光を追いながら答えた。
「兄ちゃんの中に円がいる。タケルは円の夢? 幻覚を見ているみたい」
タケルの母は立ち止まり、口元へ細い指をそっと添えた。
長い睫毛が伏し、閉じられた瞳は波音に合わせるように震えている。
白い波が足元へ広がり、ふたりの影を洗っては引いていった。
「昔…エン兄さんとこの海に来たの。私がまだアスくんくらいの年の頃……」
遠い記憶を探るような声は、冷たい潮風に溶け、海の広がりに消えていく。
アスはその横顔を見て、小さく呟いた。
「海はずっと変わらないね」
「そうね」
彼女は肩をすくめるようにして答え、視線を遠い水平線へ細めた。
「エン兄さんのことは……すごく複雑なの」
その言葉は、波の間から零れる冬陽のように淡く落ちた。
「ただ今はこれだけ……龍賢は本当に円兄さんによく似てる。龍賢は龍賢だと思う一方で、龍賢から円兄さんの面影を見てしまう時があるわ……」
彼女は自嘲するように、しかしどこか優しく笑んだ。
「駄目な母親ね」
冬の光を宿した瞳が、懐かしさと痛みの入り混じった輝きで濡れた。
「昨日のことのようにエン兄さんを思い出すわ」
風が一層冷たく吹き抜け、ストールの端がはためいた。
「ありがとう、アスくん。もう少し……話せる時がきたら聞いてくれる?」
ゆっくりとした微笑みが浮かび、海の色に淡く溶けていく。
「アスくん……タケルのことお願いね」
アスは黙って頷いた。
遠い水平線は、灰色の空と海をひとつの線に結びながら、静かに揺れていた。
波は何も語らず、ただ押しては引いていく。
けれど、そのリズムの奥で、
失われたものたちは今も息をしている。
円、龍賢、そしてタケル。
名を越えて受け継がれる“光”は、
冬の水平線の向こうで静かに瞬いていた。




