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第233話『海の記憶③』

冬の海は、思い出のかけらを静かに抱いている。

波の音にまぎれて、遠い記憶の声がふと耳の奥に届く。

タケルとアス、そしてお母さん。

三人の午後は、時間の層をすこしだけめくって、

過去と現在のあわいへと続いていった。


---


遅めのランチに運ばれてきたのは、色とりどりのサンドイッチの盛り合わせだった。

「わぁ〜、美味しそう。ぼくお腹ペコペコ!」

タケルは声を弾ませ、すぐに手を伸ばした。


「アスくんも食べてね」

お母さんがやさしく声をかける。


アスは湯気の立つ紅茶を飲みほし、小さく頭を下げた。

「ありがとう。でも……ぼく、お昼食べてきたから大丈夫」

そう言うと、視線は自然に窓の外へとすべっていった。


「ぼくたちがアスを迎えに行くのが遅くなっちゃったもんね。」タケルはお母さんを見ていった。


お母さんも少し申し訳なさそうに笑い

「遅くなっちゃてごめんね」と言った。


タケルとお母さんは「美味しいね」と顔を見合わせ、楽しそうにサンドイッチを頬張った。

そのあいだ、アスは椅子から立ち上がり、ポケットに両手を入れる。

「海、見てくる。タケルとお母さんは、ゆっくり食べて」


「遠くまで行っちゃだめよ」

お母さんの声に、アスは「はい」と軽く返して店を出た。


曇り空の下、灰色を帯びた海はどこか不穏で、冷たい風が砂を運んでいく。

足元では波が、触れるか触れないかのぎりぎりのところまで押し寄せ、白い泡を残しては引いていった。

潮風が頬を冷たくなぞり、アスの色素の薄い髪をさらさらと揺らす。


――ここには、昔いちど来たことがある。

まだ小さかった頃、父と一緒に。

数少ない父との記憶のひとつが、波のリズムに揺られながらふいに蘇る。

波の音は、記憶を運び、心にかすかな旋律を奏でていた。


そのとき、不意に肩に温もりがかかった。

振り返ると、タケルのお母さんが立っていて、アスがお店に忘れたコートをそっと掛けてくれていた。


「……タケルは?」

アスが尋ねると、お母さんはやわらかく微笑んだ。

「眠たいって。車でちょっと寝てるわ」


「そっか」

アスは短く返し、再び視線を海へ戻す。


お母さんは少し間をおいてから問いかけた。

「アスくん、ここに来たことある?」


「どうして?」

「なんとなく。……来たことある顔してたから」

そう言って、静かに微笑む。


アスも波を見ながら口もとをほころばせる。

「……むかし、知り合いと来たことがある」


お母さんは遠くを見つめ、ふっと息を吐いた。

「さっきアスくんが話してた“リズム”のこと。……波のリズムって、昔を思い出す気がするのよね」

言葉を置いてから、目を細める。

「私も……すごく昔。ここに来たことがあったの」


その表情は、いつもの“タケルのお母さん”ではなく、一人の女性としての顔だった。

冬の海を前に、過去と現在が重なり合い、風と波が二人のあいだを静かに揺らしていた。




風が通り過ぎ、波が静かに形を変える。

そこにあった記憶も、まるで潮のように溶けていく。

でも――

心のどこかに残る“あの瞬間”だけは、

たしかに波のリズムといっしょに生きている。




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