第232話『海の記憶②』
海辺の冬は、街より少しだけ時間の進みが遅い。
窓から射す光も、波の音も、
まるで世界が一瞬だけ呼吸を止めているようだった。
そんな午後、タケルとアスはカフェの窓ぎわで、
現実の“ほころび”を見つめていた。
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カフェの窓ぎわの席に腰を下ろすと、潮の香りがほんのり混じった空気が漂ってきた。
BGMに流れる波の音が、外の海と重なって、まるでここだけ異なる季節に切り取られたみたいだ。
お母さんがメニューを眺めながら、やわらかく微笑む。
「お洒落ね、ここ」
その横で、タケルはガラス越しに揺れる光を見つめて呟いた。
「……ここだけ、夏の海に来たみたいだね」
その言葉に、アスがすぐ反応する。椅子に浅く腰掛け、足をぶらぶらさせながらニヤリと笑った。
「へぇ〜、ここだけ夏? 面白いこと言うね……
それ、バグが起きてるってこと?」
「はぁ〜、バグって?」タケルは苦笑いして肩をすくめる。
「そんな大げさなこと考えて言ったんじゃないよ」
アスはテーブルに置かれた水のグラスを指で軽く叩いた。波紋がゆらゆら広がる。
「でもさ、ジジェクって人が言ってたんだ。世界って、完璧なプログラムみたいに見えるけど、本当はあちこち穴だらけなんだってさ」
彼は水面をのぞき込む。
タケルは首をかしげる。
「ジジェクって……誰?」
アスはグラスの波紋を指でなぞりながら、すぐには答えずににやりと笑った。
「へんてこなおじさん。映画とか世界とか、わざと変なふうに見るのが得意なんだ」
お母さんが笑いをこらえるようにして首をかしげる。
「へんてこおじさんが変なふうに?」
「うん。普通は“壊れてる”って思うとこをさ、“そこからしか新しいのは出てこない”って言うんだ。穴とかバグとか」
アスは言葉を置いてから、少しだけ声を落とした。
「……僕はそういうの、けっこう好き」
タケルは目を瞬かせ、窓の外の海に視線をやる。
「なんか…アスに似てるね。そのおじさん」
アスは肩をすくめ、知らんぷりするように足をぶらぶらさせた。
窓の外では、冬の海がゆっくりと光を返していた。
水面の揺らぎも、ガラスに映る自分たちの姿も、
どこか少しだけズレて見える。
――でも、そのズレの中にこそ、
新しい世界の入口が隠れているのかもしれない。




