第231話『海の記憶①』
冬の海には、時間の流れがゆっくりと溶けている。
波が寄せては返すたび、世界の呼吸が聞こえるようだった。
タケルとアスはそのリズムに導かれるように、
ふたたび小さな観察の旅へ出かけていった。
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次の日の午後。
お母さんの運転する車は、街を抜けて郊外へと走っていた。冬の陽射しがフロントガラスを透かして、車内を少しだけ明るくしている。
タケルは助手席でスマホをいじりながら、YouTubeで流れる音楽に合わせて小さく鼻歌を歌っていた。
後部座席ではアスが本を開き、ページをめくる音が静かに響いている。
「あと一時間くらいで着くよ。途中で休憩したい?」
お母さんがハンドルを握りながら言った。
「だいじょうぶ!」とタケルは即答する。
ふとタケルが振り返った。
「アス、車で本読んでてよく酔わないね。」
アスはページから目を離さずに答える。
「車の動きに合わせてリズムに乗ったら酔わないね。」
「読みながらリズム?……キミって本当変わってるね。」タケルが笑う。
アスは本を閉じ、少し微笑む。
「なんで?キミもリズムに乗って鼻歌歌ってた。」
タケルは首をかしげる。
「ぼくのリズムに乗るのと、キミのリズムに乗るのってなんか違うと思う。」
お母さんは横目でタケルを見てふっと笑い、次にルームミラーに目を移してアスの様子を確かめた。
車は郊外の坂道を下り、遠くに冬の海が見え始めた。灰色がかった空の下、波は静かに寄せては返している。
「うわ、海だ……」タケルは小さな声でつぶやき、窓に顔を近づける。
アスは少し笑みを浮かべ、窓の外の波をじっと見つめた。
「寒いけど、風の匂いが冬の海って感じだね。」タケルが言う。
「うん、空気がちょっとピリッとしてる」アスも答えた。
車は駐車場に停まり、お母さんがエンジンを切る。
「風が冷たいから、長くは外にいられないよ」お母さんが言うと、タケルはうなずき、でも嬉しそうに微笑んだ。
タケルは後部座席のアスに手を伸ばす。
「ねぇアス、少しだけ歩かない?」
アスは本から目を離し、波打ち際で揺れる光を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
二人は車を降り、砂浜に向かって歩く。冬の海の風が頬を撫で、耳に波の音だけが届く。
砂の上を歩く二人の周りで、波は押しては引き、白い泡をちらつかせながら岸辺をなぞる。そのリズムは規則的すぎず、不規則すぎず、微妙に揺れる。「1/fゆらぎ」のような自然なリズムに、心がふっとほどけていく。
タケルは波を見下ろして小さくつぶやく。
「ねぇアス、なんで海って押したり引いたりするの?」
アスは少し目を細め、波のリズムに視線を合わせる。
「うーん……水の量とか、月の引力とか、いろんな条件が重なってるんだと思う。でもね、それだけじゃない気がする」
タケルは首をかしげる。
「それだけじゃないって?」
アスは波を見ながら、少し微笑む。
「うん。押したり引いたりするのは、海自身のリズムみたいなもの。僕らが感じる時間や気持ちも、似たように絶えず揺れてる。規則的じゃないけど、自然なリズムがあって、そこに心地よさを感じるんだ。1/fゆらぎってやつだね」
タケルは波の音を耳に、少しずつ理解するように頷いた。
「ふーん……リズムか。波も気持ちも、みんな少しずつ変わっていくんだね」
アスは波の反射に目を落とし、静かに付け加える。
「そう。古代の哲学者も言ってたよ。『万物は流転する』って。波も感情も、時間も、絶えず変わりながら、僕らの感じるリズムをつくっている」
タケルは目を細めて波を見つめながら、小さく笑った。
アスも、冬の光に反射する海面を眺めて微笑む。
言葉少なに、ただ波の音と風の匂いに包まれて、二人の時間は静かに揺れていた。
風が頬を過ぎ、波が足元でほどけていく。
海のリズムはふたりの胸の中にも響き、
言葉よりも深いところで、何かがゆっくりと動き始めていた。
それは記憶のようで、夢のようで――
やがて、次の波がすべてをやさしく包みこんだ。
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