第229話『電車④』
電車に乗るとき、
ぼくらは知らないうちに「時間の流れ」にも乗り込んでいる。
同じ速度で進んでいるはずなのに、
退屈なときは長く、楽しいときは一瞬で過ぎる。
もしかすると――
時間は、ぼくらの心がつくる“風景”なのかもしれない。
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電車のレールの音がガタンゴトンとリズムを刻み、窓の外の景色は後ろへと流れていく。
午後の光が斜めに差し込み、アスの横顔を淡く照らしていた。
アスがぽつりと口を開く。
「ねえタケル。眠ってるときの時間ってさ、電車の外の景色みたいじゃない?」
「え?」とぼくは首をかしげる。
「深い眠りだと、景色が一瞬で通り過ぎるみたいに感じるし、浅い眠りだと、同じ景色がずっと続いたり、逆に急に変わったりするんだ。時計で測れる時間じゃなくて、心の中で伸び縮みする時間。ベルクソンって人は、それを“持続”って呼んだんだよ。」
アスは窓の外を指さしながら、少し笑った。
「ほら、外の景色が本当に流れてるんじゃなくて、流れてるように見えるだけでしょ。時間もそれと同じで、ぼくらの意識がつくり出してるものなんだ。」
「ベルクソンって誰?」とぼくはすぐに尋ねた。
「フランスの哲学者だよ。時計の時間じゃなくて、心が感じる時間を大事に考えた人。」アスは軽く答え、頬杖をつく。
ぼくは少し黙り込み、車窓の外を流れる街並みをじっと見つめる。
「……じゃあさ、本当の時間って、ないの?」
アスは肩をすくめて笑った。
「“本当の時間”って言葉がもうヘンなんだよ。ぼくらが測ってる時間も、感じてる時間も、どっちもただの見方のひとつ。電車の景色だって、本当は止まってる家や木が流れて見えるだけでしょ。それを“流れてる”って思うのは、ぼくらの立場から見てるからなんだ。」
列車はトンネルに入り、窓の外が一瞬真っ暗になる。
闇の中で、ぼくは考え込む。
「立場によって時間が違うなら……さっき、ぼくが電車でうたた寝してた時間は、どうなるの?」
アスはトンネルを抜けて差し込んだ光を浴びながら、ニヤッと笑った。
「タケルにとっては、一瞬だったんだろ。でも横で見てたぼくには、けっこう長く寝てたように見えたよ。」
「じゃあ、ほんとの時間はどっち?」
「どっちも“ほんと”じゃないし、“ほんとじゃない”わけでもない。時計の針が動いた分を数えれば外の基準での時間になるし、タケルの感じ方はタケルだけの時間になる。どっちも立場で成り立ってるだけで、“唯一の時間”なんてものはないんだ。」
アスは少し声を落とした。
「だから、時間っていうのは、僕らが思ってる以上に“頼りない”ものかもしれないよ。」
ぼくは窓に映る自分の顔を見ながら、小さな声でたずねた。
「……なら、どうして人は時間に囚われるの?」
アスはしばらく黙って、遠くの山並みを見つめた。
「電車に乗ってると、景色が勝手に流れていくでしょ? 止めようとしても止められない。時間もそれと同じで、僕らは“流れていくもの”の中にいるから、どうしても縛られちゃうんだよ。」
「でも、囚われたくないよ。」ぼくは眉をひそめた。
「うん。でも“囚われたくない”って思うのも、もう時間を意識してる証拠なんだ。」アスは苦笑する。
「だから、完全に時間から自由になるのは……もしかすると、生きてるあいだは無理かもしれないね。」
電車はゆるやかにカーブを描き、夕暮れの光の中を走り続けていた。
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外の景色は動いていない。
動いているのは、ぼくらのほう。
時間もまた、止まらないもののように見えて、
ほんとは誰かの心の中で伸びたり縮んだりしているのかもしれない。
だからこそ、
ほんの一瞬のまばたきにも、
永遠みたいな“持続”が宿っている。
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