第228話『電車③』
夢と現実のあいだに、
ほんの少しの“すきま”がある。
そのすきまに落ちると、
見たことのない世界で、
見覚えのある誰かに出会うことがある。
それが未来なのか、過去なのか、
それとも――まだ目を覚ましていない自分なのか。
---
タケルは、いつの間にか眠っていた。
電車の揺れは心地よく、夢と現実の境界がとけていく。
タケルは夢に落ちていた。
目を開けると、そこは見慣れた電車の中だった。
毎朝同じ時間に乗り、同じ席に腰を下ろす老人が今日も本を読んでいる。
鼻をかすめる香水の匂いに、少し酔いそうになる。
鉛のように重い体を抱え、揺れるたびに誰かの肩がぶつかる。隣に当たれば、苛立ちを含んだ視線が返ってくる。
窓の外を流れる景色は、ただの繰り返しにしか思えない。
もう、感動することもない。
過ぎていく時間にただ身を任せ、深くため息をつく。
そのとき、ふと横を見る。
少年が、じっとこちらを見ていた。
遠い昔に会ったことがあるような気がする。
でも思い出せない。
ただ、どうしようもなく懐かしい。
その懐かしさが、胸を苦しく締めつける。
タケルはかすれるように名を呼んだ。
「……アス」
タケルが次に意識を取り戻すと、電車はいつもの光景の中を走っていた。
窓の外には、午後の陽射しに照らされた線路と住宅街が淡く揺れている。
知らない老人が席で本をめくり、濃い香水の匂いはほんの少しだけ鼻をくすぐる。
隣にいるアスは、窓の外をじっと見つめ、遠い目をしていた。
タケルが目を覚したことに気づく。
「キミ、寝てたよ。……十五分くらい。大丈夫?」
アスは小さく笑って心配そうに言った。
タケルは、まだ夢の感覚に引きずられるように言う。
「うん。大丈夫……もっと長く寝てた気がする」
そして窓の外の景色に目をやった。
流れていく街並みも、揺れる電車も、夢の中で感じた大人の重さも、すべてがぼんやりと溶けていく。
タケルは小さく息を吐き、心の奥で夢の残像に手を振った。
目の前のアスと、穏やかな午後の光だけが、今ここに確かにあるものだった。
夢の中で見た“あの顔”は、
もしかしたら未来の自分だったのかもしれない。
目を覚ますたび、
世界は少しずつ知らない街のように変わっていく。
けれど、窓の外の光と、
隣で呼吸する誰かの存在だけが、
いまを確かにしてくれる。
――それだけで、生きていることは不思議に美しい。




