第225話〜兄の視点『兄の部屋⑭儚さ』
人は、いつも何かを見誤りながら生きている。
ほんの少しの角度、ほんの少しの光の違いで、
同じものがまるで別の姿に見えることがある。
けれど、それに気づくのはいつも――
時間がたってからだ。
この夜、龍賢はひとり、
消えた焔の向こうに、
“気づき”という名の静かな光を見た。
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俺たちは多くの時間を、実体のない感情や不安に振り回されながら過ごしている。
その中で“本当の気づき”を得る瞬間が訪れることもある。
けれどそれは、人生の時間の多くを過ぎたあとにようやく訪れることが多い気がする。
人生は長いようで短い。短いようで長い。
その言葉の揺らぎに、時折、人生の儚さを突きつけられる。
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夜。
眠れず寝室を出て、本堂へと向かった。
軋む戸を押し開けると、線香の香りが濃く漂っていた。
蝋燭に火を灯す。揺れる焔が、闇に淡い呼吸を刻んでいる。
眠れぬ夜には、こうして静けさの中に身を置く。
焔の向こうに、いつもの絵があった。
黒の墨で描かれた鬼のような顔。
額からこぼれる一滴の朱だけが鮮烈に目を射る。
不気味で、どこか怒りを孕んだ水墨画。
それを描いたのは、曾祖父だった。
彼は絵を描くのが好きで、筆を握るときも声を出すときも、柔らかな空気のような人だった。
静かで、けれど胸の奥に響く声を持つ人だった。
――思い出す。
あれは、俺がまだタケルくらいの年齢の頃。
お寺の息子だとからかわれ、相手を殴って怪我をさせ、親に叱られ、納骨堂のそばに拗ねて座っていた夜。
気配を感じて横を見ると、曾祖父が黙って隣に腰を下ろした。
俺は冷たく言い放った。
「俺はわるくない」
曾祖父は微笑みを浮かべて、静かに返した。
「うん、わかっとるよ。龍はなんも悪くない」
しばらくの沈黙。
やがて俺は低く吐き出した。
「後悔してる」
「ん? 何を?」
「もっとなぐればよかった」
「そうか」
それだけを受け止め、曾祖父は独り言のように語った。
『人を傷つけることは諸刃の剣のようなもの。
振りかざせば相手も、自分も、別の誰かも切ってしもう。
その痛みはすぐに消えても、心に残る痕は、長く、じんわり残り続ける』
俺はなおも冷たい声で言った。
「痛くていい。どうでもいい。傷付けばいい。自分も、あいつらも、別の誰かも…」
曾祖父は優しく微笑んで、ただ一言。
『いつか気づく日がくる』
それが、十年以上前に交わした最後の言葉だった。
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揺れる焔を見つめながら、今の俺は思う。
あの頃はずいぶん子供だった。
いや、実際に十歳の子供だったのだけれど。
アスを見ていると、あの頃の自分がとても未熟に思えてならない。
――諸刃の剣。
今ならわかる。
けれど気づいたときには、もう教えてくれた人はいない。
これが人生の儚さか。
隙間風が吹き込み、焔がふっと揺れて消えた。
カタン、と小さな音が響く。
灯りをつけると、曾祖父の絵が倒れていた。
近寄って屈み込み、絵を立てかけ直す。
消灯の前、ふと目に入った。
――絵が逆さまになっている。
額から垂れていたはずの朱が、下にきていた。
そして気づいた。
朱は血ではなかった。
それは唇の朱であり、絵は鬼ではなく、柔らかに微笑む女の顔だった。
上下逆さに描かれた絵。
思わず笑いが漏れる。
気づくことの遅さに。
そして、描いた人はもういないということに。
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余白の静けさの中で、心はふっと軽くなる。
遅すぎる気づきが、夜の闇に淡く溶けていった。
夜明けが近づくにつれ、
闇は色を変え、ゆっくりと空へ還っていく。
人もまた、
過去の影を少しずつ手放しながら、
新しい朝を迎えるのかもしれない。
逆さに見えていた絵のように、
人生もまた、見方を変えればやさしさに満ちている。
そのことに気づくまでに、
どれほどの夜を越えてきたのだろう。




