第224話『兄の部屋⑬〜深い眠り…陸』
夜という時間は、
心の奥にある“気づいていない何か”を、
そっと浮かび上がらせる。
光の届かないところで、
人はそれぞれに影を抱えて生きている。
それは恐れかもしれないし、
誰かを想うやさしさかもしれない。
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居間の空気は、微かにひんやりと静まり返っていた。
カーテンの隙間から覗く窓の外の木の枝が、街灯に照らされて揺れるたび、床に影が波のように広がる。
揺れる影は、まるで何かが忍び歩くように形を変え、静かな室内に潜む不安をそっと呼び覚ます。
カーテンの裾は、風にかすかに揺れ、闇の中で手招きするように動いた。
遠くで響く救急車のサイレンが、夜の静寂にひそやかな緊張を重ね、耳を澄ませば、誰もいない廊下から小さな物音が聞こえてきそうな気配がする。
アスは何かを考えて、ふと口を開く。
『ねぇ…タケルが言ってたけど冬祭りの日、着物の女の人についてきてって呼ばれたって…』
『着物の女?タケルの知り合い?』龍賢が眉をひそめる。
『知らない人だって。それで、今日の朝、…』
そう言いかけた時、扉が静かに開く。アスと龍賢は思わず小さく身を震わせる。
そこに立っていたタケルは、眠そうな目をこすりながらソファに座った。
『起こしてって言ったのに。』小さな肩をすぼめてふてくされるが、瞳には好奇心がわずかに光る。
『なに二人で話してたの?』タケルは龍賢とアスを交互に見て尋ねる。
龍賢はお茶を一口飲み、湯気が静かに揺れる。
『世間話だよ』と笑う声も、揺れる枝影と影の奥に溶け、微かに寒気を伴う静けさに溶け込む。
アスはタケルをじっと見つめ、『キミの話』と言った。
タケルは首をかしげ、目を輝かせて、『えーぼくの話?なになに?いい話?』と聞く。
アスはタケルの隣に座り直し、立て膝で体を少し丸めながら、息を吐きつつ答える。
『いや。キミの悪口』
タケルは目を丸くしてアスの腕を引っ張る。
『はぁ?ぼくが寝てる時に悪口?』
『いないとこで話さないと悪口にならない。』
アスは自分の耳を触りながら答える。
タケルは少し考え込み、声を潜めて言う。
『悪口の本質なんて聞いてないよ』
『じゃあなに?』アスが聞き返す。
『なんで、ぼくの悪口をいってるのかをきいてる』タケルが答える。
『キミの悪口で、カタルシス効果』アスが軽く笑う。
『カタルシス効果ってなにそれ!兄ちゃん笑ってないでなんか言って』
『本当、仲いいな。』龍賢は二人のやり取りを見つめ、天井を見上げて目を閉じる。
タケルは呆れたようにアスの肩に頭をそっと置く。
龍賢は目を開け、その姿を静かにぼんやりと見つめる。
居間の奥から外の夜まで、すべてが静かに繋がるような、厚みのある時間が流れる。
窓の外では、風が一瞬やんだ途端、枝の影が急に止まり、闇の奥に何かが潜むような錯覚を生む。
遠くで救急車が通り過ぎ、夜の音が室内の静寂に波紋を落とす。
揺れるカーテンと影、そして静かに座るタケルの小さな肩――その全てが、昼間の安心感とは違う、夜の奥深さを感じさせる。
『まだ眠い?』アスが聞くと、タケルは首を小さく振った。
人は誰でも何かを抱えているものだと思う。
どんなに小さくても、どんなに年齢が違っても。
時にそれは、目に見えず、触れられず、夜の闇の奥に差し込むような存在かもしれない。
それが、人らしさというものなのかもしれない。
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夜が深まるほどに、
見えないものの輪郭が、
少しずつはっきりしてくる。
けれど同時に、
それを言葉にする勇気は
静けさの奥に沈んでいく。
三人の間に流れたあの沈黙は、
きっと、恐れと優しさが
ひとつになった瞬間だったのかもしれない。




