第223話『兄の部屋⑫〜深い眠り…伍。』
夜の音というものがある。
人の声が消え、時計の針と木々の影だけが動いている時間。
誰かの眠りの向こう側で、もうひとつの世界が静かに息をしている。
その夜、龍賢はアスを前に、ずっと口にできなかった「弟の話」を始めた。
窓から覗く外の木の影が、夜の闇にゆらゆら揺れる。
龍賢は揺れる木々を見つめながら、静かに口を開いた。
『タケルが痣だらけになった日、俺は本堂でピアノを弾いてた。そしたら窓から誰かと歩くタケルらしき人が見えた。でも時計を見たら夜中の1時で、こんな時間に子供が歩いてるって変だなって。』
龍賢は立ち上がり、カーテンをそっと閉める。暗がりの中で腰を下ろし、アスを見つめ続けた。
『それで、タケルの部屋に行ったらタケルがいなくて、父さんと母さんを起こして、みんなで探した。』
息を吐きながら、龍賢は少し目を閉じる。
『その後、傷だらけのタケルを見つけた?』
アスの問いに、龍賢はゆっくりと頷いた。
『竹林にタケルがいるのを見つけた時、確かにタケルは誰かといた。遠かったけど、誰かと確かに…でも近づくとタケル一人だった。タケルは「やめて、赦して」って泣いてた。』
龍賢は声のトーンをさらに下げ、静かに続けた。
『でもタケルは、寝てるのと同じ状態で、意識がない感じだった。タケルを家に連れ帰って、大騒ぎになってた間、本人は二日くらい眠ってた。』
龍賢はタケルが眠る部屋を振り返り、再びアスを見た。そして言葉をつなげる。
『タケルは起きた時、自分が怪我してて驚いてたけど…何かを怖がってた。』
『何かって?』アスが掠れた声で聞く。
『ん。その何かは俺にもよくわからないけど、たまにここに一人で泊まりに来た時、俺の隣で寝たがる。言わないけど、何かを怖がってる。』
龍賢はタケルが眠る方に目をやりながら、さらに静かに語る。
『タケルは、今日みたいに異常に眠る時が時々ある。たまに寝ながらどこかへ行こうとする日もある。最近は前ほどじゃなくなってたと思ってたんだけど…また…。』
『それで、ウチの親はあんな事もあったし、ずっと睡眠とカウンセリングで病院に通わせてるみたいだけど。』
アスは黙ったまま、龍賢の話に耳を傾けていた。龍賢はちらりとアスを見て、ふっと息を吐き続ける。
『父さんと母さんはさ、年とってから出来た子供ってのもあるけど…タケルっていう存在を異常に可愛がってる。神経質になる反面、めちゃくちゃタケルに甘い。』
龍賢は少し思い出すように微笑む。
『だから、今日みたいな事があったって聞いたら、多分暫く家からまたタケルを出さなくなると思う。まぁ、タケルに甘いから嫌がる事はしないとは思うけど、でも心配はしてる。少し怖くなるくらい。』
そう言って、龍賢はそっと目を伏せた。
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カーテンの向こうで、また風が鳴った。
夜は誰のものでもない。
ただ、眠る者たちを静かに見つめている。
龍賢の言葉の残響が、アスの胸の奥で波のように広がっていた。
タケルが「呼ばれている」のだとしたら――
それは、どこからの声なのだろう。
そして、呼ばれているのは本当にタケルだけなのだろうか。




