第221話『兄の部屋⑩〜深い眠り…参。』
夜は、心の奥を照らす鏡のようだった。
灯りの下、言葉よりも静けさが雄弁に語る。
触れられないもの、言えない想いほど、
人の輪郭を浮かび上がらせていく。
その夜、龍賢とアスのあいだにも、
目に見えない何かがゆっくりと形を変え始めていた。
龍賢はお茶を一口含み、湯呑みを卓に戻すと、ゆっくりとアスの方に身体を向けた。
「今日、ときわ市の病院……穏和ケア病棟に行ってきた。露葉を知りたくて」
アスの指先が止まり、顔が上がる。
真っ直ぐに龍賢を見て、短く尋ねた。
「どうだった?わかった?」
少しの間が流れ、龍賢は低く答える。
「いや。でも……ただ、少し……彼女の過去に触れることが出来たような気がした。
苦しみの一部、悲しみの一部を知れた気がする。
露葉の感情が少し流れ込んできたような……でも……」
龍賢の言葉は途中で途切れる。
アスの瞳が真っ直ぐに射抜くように見つめてきて、その視線に言葉を奪われた。
沈黙を破ったのはアスだった。
「兄ちゃんは、まだ途中なんだね。
仕方ないよ。昨日の今日じゃ変わるのは難しい……暫くお姉さんには会えないって事だね」
その声には年齢を超えた落ち着きがあった。
すべてを見透かすような眼差しと口ぶりに、龍賢は一瞬、目の前の少年が十歳であることを忘れそうになった。
アスは立ち上がり、本と湯呑みをテーブルに置くと、龍賢の隣に腰を下ろす。
立て膝をし、片足を抱き込むようにして、斜めに龍賢を覗き込む。
「円なら……」
小さな声で言いかけ、少し間をおいてから、口角を上げた。
「円なら、上手くやれたかも」
「アス、お前……俺の反応を見て愉しむのやめろ」
龍賢は目を逸らさず、深く息を吐いて続ける。
「そうかもしれない。……でも露葉を好きなのは俺の方で、円じゃない」
アスは龍賢をじっと見据えたまま、軽く肩を揺らした。
「へぇ。やっぱり兄ちゃんは、お姉さんのことになると熱くなるね」
「当たり前だろ。露葉は俺の……」
言いかけて、言葉を選び直す。
「……俺は露葉のことが大事だから。当たり前」
アスはクスクス笑い、抱えていた足を解くと、ソファの縁に手を置いて指先でなぞった。
「好きなように話せばいいのに」
小さく呟き、さらに続ける。
「でもその気持ちも……大事だと思う気持ちさえ、円からきていたものだったら?
ここまでが兄ちゃんで、ここからが円って線なんて最初からあるのかな。
なかったら?」
縁をなぞる指が止まり、アスの視線が龍賢をとらえる。
「……そうだな。ないのかもしれない」
龍賢の声は低く、かすれていた。
アスはふっと笑い、目を伏せる。
「ごめん。冗談がすぎたね」
そう言って、窓の外へ視線を向ける。
冷たい夜気を映すガラスの向こうから、遠くのサイレンの音が流れ込んできた。
救急車が、夜を切り裂くように走り抜けていく。
最近よく耳にする気がする。
いや、違う。
救急車が増えたのではなく、耳がその音を拾うようになっただけだ。
意識すればするほど、音は近くなる。
意識すればするほど、その響きは悲しい色を帯びる。
静かな部屋の中、二人の沈黙を埋めるように、遠いサイレンだけが流れていた。
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サイレンの音が遠ざかると、
夜はまた、深い沈黙を取り戻した。
その静けさの中で、
二人の言葉はまるで――
消えかけた線香の煙のように、
淡く、ひとつの祈りへと溶けていった。




