第220話『兄の部屋⑨〜深い眠り…弐。』
夜はゆっくりと深まり、寺の中には湯気と灯りがやわらかく滞っていた。
湯の音、食器の響き、そして人の気配。
それらが少しずつ溶け合い、時間さえ息を潜めているようだった。
ほんのささいな会話の奥に、
誰かを想うぬくもりと、言葉にできない静けさが、確かにあった。
龍賢はしばらくして、ゆっくりと戻ってきた。
アスはもう食事を済ませ、机に肘をついて龍賢を見上げる。
「兄ちゃんの料理にお酒でも入れた?タケル酔っ払ってるみたい」
龍賢は茶碗を片付けながら、肩をすくめて笑った。
「……あぁ、実は隠し味で。――って、小学生の料理に入れるか」
苦笑いとともに小さなため息がこぼれる。
アスはソファに横向きに座り、本を開いていた。
龍賢は流しで茶碗を洗っていると、電話の音が響き、外へ出て行く。
戻ってきたとき、手には大ぶりの菊の花が抱えられていた。
「沢山だね、菊の花」
アスが顔を上げる。
「檀家さんが持ってきてくださった」
龍賢はそう言って、白と黄色の花をそっと水に沈めるようにバケツに挿した。
花びらに滴る水が、部屋の灯りを淡く映す。
その光景を見つめながら、龍賢の口もとにかすかな笑みが浮かんだ。
「兄ちゃん。タケルまだお風呂入ってるけど」
アスの言葉に、龍賢は一瞬凍りつき、慌てて口元を押さえながら立ち上がった。
足音を急がせ、お風呂場へ向かう。
湯船の湯気の向こうで、タケルはすやすやと眠っていた。
小さな体はお湯に浮かび、顔は今にも沈みそうになっている。
龍賢はためらわず腕を伸ばし、タケルを抱き上げた。
重さと温かさが胸にずしりと伝わる。
薄く目を開けたタケルは、こすった瞼の隙間から龍賢を見上げたが、
すぐにまた夢へ戻っていった。
龍賢は肩を揺すり、声をかけながらなんとか目を覚まさせ、
濡れた髪をタオルで拭き、着替えを手伝う。
眠気に足を引きずるタケルをそっと寝室まで連れて行った。
――その一部始終を、アスは黙って見ていた。
ソファの端に座ったまま、本を抱え、視線だけで。
戻ってきた龍賢は急須に湯を注ぎ、湯気の立つ茶を二つ用意する。
そして、ソファの角で小さく身をすぼめるように読書を続けているアスの前に、
湯のみを静かに差し出した。
「ありがとう。……タケルは?」
心配そうにアスが尋ねる。
「気持ち良さそうに眠ってるよ」
「そう。よかった……」
アスの声が少し柔らぎ、安堵の色が混じる。
部屋にまた沈黙が満ちた。
龍賢は湯気を見つめ、やがて小さな声で呼ぶ。
「……アス」
アスは本から目を離さず、短く返した。
「なに?」
ページがめくられる音。
その指先はときどき、ページの角を折り、小さな印を残していく。
龍賢はちらりと視線を送り、その仕草を目に留める。
何かを言い出せず、ただ湯気が二人の間に淡く流れていった。
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二つの湯のみから立ちのぼる湯気が、
言葉の代わりにゆらゆらと、二人のあいだを漂っていた。
眠るタケルの呼吸も、夜気の中でゆっくりと溶けていく。
伝えることも、触れることも、
いまはもう必要のない時間——ただ、そこにあるぬくもりだけが残っていた。
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