第217話『兄の部屋⑥〜霊…前編。』
夕暮れの光が窓から差し込み、部屋の中に柔らかなオレンジ色の影を落とす。
ソファに座る龍賢と、鉛筆を握るタケル。
机の上には宿題の紙が広がり、隣には静かに微笑むアス。
日常の中のほんの一瞬――だけど、この時間は、体と魂、意識と記憶について考えるには十分な静けさを持っていた。
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龍賢はソファに座り直し、スマホをしまうと、柔らかく微笑んだ。
「アスのお母さん、今日帰り遅くなるって連絡きたから、今日もウチに泊まって大丈夫ですよって話しといたよ」
アスは肩をすくめ、穏やかに頷く。
「うん、連絡きた。ありがとう」
龍賢はタケルの方を向き、少し笑みを含ませる。
「タケルも泊めるって母さんに連絡しといたよ」
タケルは小さくガッツポーズを作り、嬉しそうに飛び跳ねる。
「やった〜!」
龍賢は手をひらりと動かしながら続ける。
「母さんが、タケルの宿題見てやってって」
タケルは肩を落とし、鉛筆を握る手を指で弾きながら呻く。
「げっ……」
タケルはアスに顔を向け、にやりと笑いながら言う。
「兄ちゃん、ぼくたちの宿題見てくれるって……ね〜、アス、頑張ろう」
アスは肩をすくめ、腕を組みながら落ち着いて答える。
「ぼく、宿題終わってる」
タケルは舌を出し、眉をひそめる。
「キミって本当可愛くない子だよね」
龍賢はソファに深く腰かけ、くすくす笑う。
「タケルは可愛すぎだろ」
タケルはため息をつきながらバッグから宿題を取り出す。鉛筆を握る指先に力を入れ、ページをめくる。
「はぁ〜、ぼくの体を貸すから誰か代わりに宿題してくんないかな…」
アスは肘をソファに置き、指先で顎を支えながらじっとタケルを見つめる。
「へ〜、分離して容れ物を貸すってこと? 貸してる間、キミはどこにいるんだろうね」
タケルは鉛筆を回しながら眉をひそめる。
「本気で貸すって言ってないよ。また容れ物って言ってるし」
アスは窓の外の夕焼けを眺め、低く声を落として言う。
「でも、魂があったら抜けたキミの魂はどこにいるの? もしかしたらもう違う魂がキミの中に入って、キミはタケルじゃないかも」
タケルはびくりと肩を震わせ、鉛筆を握り直す。
「え、怖いよ。ぼく、魂抜けてないし」
アスは軽く笑みを浮かべ、指先でテーブルを叩く。
「それはわからないよ。さっきと違う気もするし」
タケルは眉をひそめ、声を強める。
「ちがくないし、怖いし。やめてよ! 兄ちゃん、笑ってないでなんとか言ってよ。魂ってあるの? ぼくの魂抜けてないよね?」
龍賢はソファの隅で頬杖をつき、クスクス笑いながらも、夕暮れの光に照らされた横顔が揺れる。
しばらく沈黙のあと、ゆっくり体を起こす。
「魂か…あるともないとも言えるな」
タケルは目を見開く。
「え? どういうこと?」
龍賢は手を組み、静かに言葉を紡ぐ。
「仏教ではね、『無常』って考え方がある。体も心も、全部変わり続けるもの。固定された『魂』っていうのはないけれど、命の連なりや、心の動きとしての存在はある。だからタケルの魂が抜けたとか、残ったとかいう見方は、ちょっと違う」
アスは眉を上げ、目を細める。
「なるほど…じゃあ、体が容れ物でも、魂が移ろうものでも、その瞬間の意識や感じることが大事ってこと?」
龍賢はタケルの肩越しに外の夕焼けを見ながら頷く。
「そうだな。形あるものは消えるけど、感じるもの、想うものは消えない。だから、幽霊も、会いたい人の気配も、意識すればそこに現れるように感じるんだろう」
タケルは鉛筆を握り直し、少し安心したように息を吐く。
「そっか…だからアスが言ったことも、ぼくが怖がったのも、意味があるんだね」
アスは窓の外を見つめ、小さく笑う。
「じゃあさ…もし、体が死んでも、意識だけ残るなら…ぼくたちは、いくつもの『ぼく』を持つことになるんじゃないかな」
龍賢は眉をひそめ、静かにアスを見つめる。
「ん? どういうこと?」
アスは机に手を置き、言葉を選ぶようにゆっくり言う。
「だって、意識って、その瞬間に感じているものだから。体がなくても、誰かが想ったり、記憶したりしてくれたら、その意識は残るんじゃないかって」
龍賢は視線を窓の光に移し、静かに答える。
「……そうだな。体がなくても、誰かの記憶や想いの中に残っているなら、その意識も、どこかで生きているのかもしれない。触れられなくても、声にならなくても、そこに確かにある——そう考えると、死んでも、完全にはいなくならない気がする。……そういう風に思いたいな」
体がなくても、魂がどこかへ移ろうとも、
意識や想いは消えない。
怖さも、不安も、安心も――
感じること自体が、その存在を確かにする。
夕焼けに照らされた部屋の空気の中で、三人の会話は静かに揺れながら、意識と存在の尊さをそっと刻み込んでいく。
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