第215話『兄の部屋④意識が見せるもの』
朝の光のはずなのに、部屋は闇に沈む。
影は揺れ、木目は顔に見え、風は遠くで囁く。
目に見えないものが、意識の端で動き、怖さと美しさが紙一重で胸を満たす。
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「見てるのはキミかも」
さっきアスが言った言葉が、ふと頭に浮かぶ。
妙に、怖くなる。
アスは携帯に呼ばれて、外へ電話しに行ってしまった。
部屋に残されたぼくは、畳や襖の木目をじっと見つめる。
顔に見えたり、影が微かに動いたように見えたりする。
風の音が遠くで叫び声のように響く。
――ぼくが見ているから?
――ぼくが意識してるから怖いだけ?
その時、扉を叩く音がした。
思わず耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じる。
足音が、ぼくのすぐ近くをすり抜けるように響いた。
恐る恐る、片目だけ開ける。
部屋は、真っ暗だった。
朝だったはずなのに……
ぼくは怖くて、そっと部屋から出ようとした瞬間、手首を誰かに掴まれた。
「静かに…部屋から出ないで」
囁く声。兄ちゃんの声だ。
「タケル……見てはいけないよ…」
「見るって? キミは……円?」
タケルは手首を握られたまま、暗闇の中で目を凝らす。
黒い影――円――が、ゆらりと揺れながらぼくの意識の端に現れる。
心臓が早鐘のように打つ。息が詰まる。
「……円?」
声も震えて、耳に届く自分の鼓動と重なる。
ぼくはそっと手を伸ばそうとした。
暗闇に触れた指先は、冷たくも温かくもなく、ただ空気だけをかき分ける。
それでも影は、確かにそこにあるように見える。
その瞬間、扉がゆっくり開く音がした。
振り返ると――
「やっと起きた」
アスが、ぼくの近くで本を開き読んでいた。
「え……?」
「電話を切って戻ったら、きみソファで寝てる。一時間くらい経った。どこでも寝れるの羨ましいなって」
「え……寝てないよ? アスがさ、『ぼくが霊を見てる』って言ったから怖くなって……そしたら、急に夜になったり、手首を掴まれたり……意識した瞬間、色々あって……怖いよ」
アスは本のページに目を落とし、静かに微笑む。
「うん、それでいい。怖いのは、キミの意識が生み出してるから。
見えるのも、感じるのも、全部キミの世界の一部」
浅い息…まだ小さく震えている。
ぼくは体を起こしわずかに肩の力を抜き、目を円がいた場所に戻す。
円はまだそこにいる――形はぼんやりとして、まるで霧の中の影のよう。
でも、ぼくがじっと見つめるたびに、少しずつ輪郭が浮かんでは消える。
「……怖いのに、きれい」
小さな声で呟く。
外の光が差し込む部屋の隅で、影が揺れる。
ぼくはまた焔の女性の顔や、ダリの卵の割れる瞬間を思い出す。
アスは少し微笑んで、ぼくの背中に軽く触れ、
「その怖さと美しさ、両方を感じられるのは、キミが見てるからだよ」
ぼくはしばらく、円の揺れる影を見つめる。
影は捕まえられず、形を固定することもできない。
でも、確かにそこにある。
ぼくが意識する限り、世界は、幽霊も、美しさも、怖さも、混ざり合ったまま存在する。
少しずつ、円が薄れていく。
それでもぼくの胸の中には、黒く揺れる輪郭と、焔の女性の目の余韻が残っていた。
怖さと美しさが、静かに、でも確かに心に刻まれていく。
触れられない影、掴めない輪郭。
それでも確かに感じる世界がある。
怖さも、美しさも、幽霊も、すべてはタケルの意識の中で混ざり合い、静かに胸に刻まれる。
黒く揺れる輪郭と、焔の女性の瞳の余韻は、消えても心に残り続ける。
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