第214話『兄の部屋③〜見ているのはどっち?』
朝の光が静かに差し込む部屋には、絵の世界と現実の境がゆらりと混ざる。
ページをめくる指先と、畳に落ちる影。
そこに触れるものは、怖さと美しさが紙一重で共存する静かな時間。
タケルはふとページから目を離し、天井の光をぼんやり見つめた。
朝の光は静かに差し込み、畳の縁に長い影を落としている。
部屋は静寂に包まれ、微かな風で襖がかすかに揺れる。
「……ねえ、アス」
「ん?」アスも画集を閉じ、視線をそっとタケルに向けた。
肩越しに差し込む光が、二人の影を淡く長く伸ばす。
「昨日の夜、不思議なことがあったんだ」
アスの眉がわずかに上がる。
「不思議なことって?」
タケルはページの余白を指でなぞりながら言う。
「うん。冬祭りのときのこと。氷の彫刻を見たあと、兄ちゃんとお姉さんが喧嘩して、ぼくたち離れたベンチから見てたでしょ?」
「うん。途中でキミ、いなくなったね」
「うん。トイレに行きたくなって、トイレから出てきた時……」
アスは画集に手を置いたまま、タケルに視線を注ぐ。
「どうしたの?」
タケルの声が微かに震える。
「着物の女の人が、ぼくを見て微笑んで立ってたんだ」
「知り合い?」
「ううん、知らない人。でも“タケルくん、あっちにお兄さんたちがいるよ”って、左を指差して……」
「左? あの場所なら彫刻の広場は右だよね」アスは少し首をかしげる。
「でも“ついてきて”って言うから……」タケルの声がかすかに震える。
「まさか、ついて行ったの?」
「うん……兄ちゃん達が喧嘩してたから、お姉さんが怒ってどっか行って、兄ちゃんが追いかけたのかなって、複雑な感じで……」
アスはじっとタケルを見つめ、息を整えるように視線をそらさず待つ。
「それで?」
「どんどん人のいないところに行くんだ……ぼく、怖くなって“自分で探します”って言ったんだけど……その人が“信じてついてきて”って、寂しそうな顔で言うから」
アスは真面目な顔で小さく頷いた。
「から?」
「から……ついて行こうとしたら、“タケルついて行っちゃダメだよ”って兄ちゃんの声がした」
タケルは腕を少し抱えるようにして、小さく息を吐く。
「振り返ると同時に手首を掴まれて、元の道を進むんだ…その後ろ姿をずっとぼくは見てて、
兄ちゃんたちが見えた時、その手は離れて…」
タケルは手首に触れながら、
「その人は、人混みに消えてった」
と呟く。
アスは静かに考え込むように目を閉じる。
部屋の空気が一瞬だけざわつき、微かに遠くで風鈴の音が鳴ったかのような気配がする。
「もしかしてそれって……円?」
「多分……でも、なんで? 幽霊が、ぼくを掴むの? 温かくて、本物みたいだった……ありえないよね?」
アスは静かに首を振る。
「ううん、キミにとってはそれが本物なんだと思う。触感もクオリア。痛いとか冷たいと同じで、外からは証明できない。でも、キミが感じたこと自体が証明になる」
タケルは小さく「そっか……」とつぶやき、指先で画集の端を押さえる。
しばらく黙ったあと、再びページを指さす。
「……着物の人、この絵に少し似てた」
アスは視線を《焔》に戻す。
女性の顔は、柔らかな光に包まれながらも影を落とし、静かにこちらを見つめる。
裾の深紅が微かに揺れ、畳に長く影を落とす。
手首をそっと動かすだけで、絵の中の空気がざわめくように感じられる。
アスはゆっくり語り始めた。
「六条御息所って知ってる? 源氏物語の登場人物で……愛する人に執着して、生き霊になった女なんだ。
美しいけど、どこか不気味で……その感情が残ったまま、幽霊になったような存在」
タケルは息をのむ。
絵と、冬祭りの夜の出来事が、薄く重なり合う。
部屋の空気はまるで能舞台のように張りつめ、静かで、でも目に見えぬ動きが潜んでいる。
「今も視線を感じる…」タケルの声がかすかに震える。
アスは微笑み、画集をそっと閉じる。
「見ているのはキミかも」
「え…」タケルの息が詰まる。
アスは答えず、目を細め、外の光が揺れる襖の影を見つめた。
部屋には二人の呼吸だけが響き、光と影が柔らかく揺れる。
焔の女性の視線は微動だにしないが、タケルにはその気配が確かに届く。
怖さと美しさが紙一重で揺れ、過去も未来も、静かに時を刻む。
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触れたことのないものの存在を、心は確かに知る。
温かく、本物のように感じた手の感触。
怖さと美しさは混ざり合い、時と空間を越えて胸に残る。
タケルとアスが並ぶ部屋には、光と影、過去と未来がゆっくりと呼吸していた。




