第212話『兄の部屋①〜ダリとキミ』
朝の部屋には、まだ昨夜の余韻が残っている。
本棚に眠る一冊の画集をめくると、奇妙で、でもどこか親しい世界が立ちあがる。
絵を通して見えてくるのは、未来か、それとも自分自身か。
兄の家に泊まった朝。
兄は仕事で出ていって、広い部屋にはぼくら二人だけ。
リビングの本棚をあさっていたら、背の高い棚に大きな画集を見つけた。
「ねえ、これ見ていい?」とタケル。
「もちろん」アスが答えて、テーブルに広げてパラパラめくる。
奇妙な形の人物や風景が次々と現れて――
「やっぱりダリは変な絵ばっかりだよ。でもぼく好き」アスがにやりと笑った。
「あ〜、きみっぽい。きみとダリ、同じ世界って感じ」タケルが言う。
「嬉しいよ」アスは真顔でうなずく。
「……ほめてない」タケルが冷たく返す。
「なんか本当、見え方が他と違うって感じ」タケルが続ける。
「嬉しいな」アスが笑う。
「……ほめてない」
「変人って感じ」
「ありがとう」
「全然ほめてない」
二人で笑いながらページをめくると、卵の殻が大きく割れて、人間のようなものが出てくる絵があらわれた。
タケルはじっと見つめて、声をひそめる。
「……これ、卵?」
「そう。卵から人間が生まれてるんだよ」アスは説明文を指差す。
「卵って未来とかはじまりの象徴なんだ。でもね、卵は割れないでいることはできない。いつか必ず割れる」
「……でもさ、なんか怖い。赤ちゃんじゃなくて苦しそうに見える」タケルは少し顔をしかめた。
アスはゆっくりページをなぞりながら言った。
「怖いのは当たり前。未来は知らないものだから。
でも卵は割れる。割れたら明日が来るんだ」
その瞬間、ページの静けさが部屋いっぱいに広がってきた気がした。
まるで本の中の卵の殻が、すぐそこでミシミシと割れはじめているみたいに。
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卵の殻は、いつか必ず割れる。
それは未来のはじまりであり、同時に恐れの音でもある。
ダリの絵に笑いながら、ふと胸に広がる不安。
知らない明日が近づくたび、ぼくらの耳にもかすかに――
ミシミシという音が聞こえてくるのかもしれない。




