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第210話『冬祭り⑤記憶』

冬の空は静かに、世界を揺らす。

白い雪が舞い落ちるたび、時間も景色も少しだけ変わる。

誰かの視線に気づくこと——それが、ぼくらの宇宙観察のはじまりだ。


『兄ちゃん、ときわ市の高台にある病院を知ってるよね?今日見えてた聖母マリア像がある病院』


『あ〜よく知らないけど教会のような外観の、昔からある病院の事?』


アスは小さく頷いた。

冬なのに薄着のまま、風を受けて鎖骨がちらりと覗く。寒さを感じていないかのように目を細め、まるで風を味わうように首を少し傾けた。

その視線が、ふと龍賢の方へ滑り込む。見透かすような、静かで鋭い光。


『緩和ケア病棟。

どうして今日、お姉さんはあんなに意地になったんだろね。』


龍賢は一瞬考え、察したように目を細めた。

『露葉のお母さんが最後を過ごした場所か…』

口元に手をあて、視線はわずかに逸れる。


アスは頷き、短く息を吐くと、声を低く落とした。

『ねぇ兄ちゃん、ぼくの事は一切聞かないって約束するなら、ぼくの知ってるお姉さんの事を教えてあげるよ?』


その瞳は揺れず、龍賢の胸の奥まで覗き込むようだった。

アスは軽く身体を前に傾け、耳元まで声を近づけるようにして言う。選択肢は一つしかない。


『わかった。アスの事は聞かないから、露葉の事を教えて。』


アスは小さく口元に笑みを浮かべた。

微かに身体を揺らし、影が風に溶けてひらりと舞うようだった。


『二年前の冬、ときわ市の緩和ケア病棟でぼくはお姉さんとはじめてあった』


龍賢は驚き、目を見張った。

『アス…お前、』

言葉を飲み込み、ただ彼の瞳に引き込まれる。


アスは続ける。

『あの頃お姉さんは、髪が背中まであっていつも、今日みたいな服装だった』


雪がちらつく冬の空の下、アスの髪が揺れるたび、薄布の服の裾や鎖骨が光を反射した。

『いつも同じ本を読んでた。

いつもホスピタルアートが飾られてある、ステンドグラスが光に反射して揺れる場所に、ひとりでいた。

いつも同じベンチに座ってたよ。』


目を閉じると、呼吸のリズムだけが聞こえ、周囲の空気さえ静止したように感じる。

『あまり笑わず感情を出さない人だった。多分敢えてそうする事で自分の気持ちを落ち着かせていたのかもしれない。何かがあると呼吸を整えていたから』


彼はふっと顔を龍賢に向け、目を細め覗き込むように見た。

『ぼくたちは、よく隣に座って過ごしてた。会話より沈黙を楽しんでたね』


『アスと露葉らしいな』と龍賢は小さく呟く。


アスの視線が、言葉以上に深く刺さる。

雪が頬をかすめ、吐く息が白く空気に溶ける。


『お姉さんはね、毎日病院に来てるって言ってた。でもいつも一人なの。だからぼくはお姉さんに聞いた。』


『なんてきいたの?』


アスはちらりと龍賢を見て、薄く笑む。

その視線に、じっと見透かされるような不気味さがあった。

『家族はいないの?って。いるけどいないって、お姉さんは言ってた。』


視線を空に上げ、雪を追う。

『兄ちゃんは、最後を迎える病院にいつも一人ってどう思う?どう感じる?』


問いかけは風のように軽いが、重さを帯びて胸に落ちる。

龍賢は答えられず、目を泳がせる。


『お姉さんは、いつもボロボロの本を読んでた。付箋がたくさんしてあったね。その古い本をずっと読んでた。』


『マルテの手記…』


風がアスの髪を揺らす。

薄着の体が揺れるたびに鎖骨が白く光る。

『お姉さんみたいな本』

その声は雪に吸い込まれていくようだった。


やがて沈黙を破る。

『最後に会った日、お姉さんが言ってた。お母さんの呼吸器を外す同意をしたって…』


『え……』

龍賢は声にならず、呟く。

『露葉ひとりで?そんなことまで?なんで?色々ある家族だとは知ってたけど、

聞いてない。

露葉は…』


アスは肩を震わせ、雪の空を仰ぐ。

そして龍賢を、じっと見透かすように見た。


『お姉さんの左腕って兄ちゃんは見たことある?』


『露葉の腕?いや…見たことない気がする。』


『そう。』

短く、冷たい空気を切るような言葉。


『誰も救ってくれない人もいる。手を伸ばしても、その手はすり抜ける。救済のない。救いのない。そんなひともいる』


目を閉じ、風に身を任せる。

龍賢は息を止めた。


『生きることって虚しいね。お姉さんが、そう言ってた。その声が今も耳に残ってる』


アスの瞳は淡く色を失い、じっと龍賢を覗き込む。

影のような静けさで、心の奥まで覗き込むような鋭さがあった。


『辛い時、腕を掻きむしるクセがあった。掻いた跡が傷になってその上からまた掻きむしってた。』


「どうしてそんな事…」

龍賢は言葉を失い、目を伏せる。


『どうして?』


氷の刃のような声。

龍賢は顔を上げる。


『どうして?て、そんな事聞く方が酷なことだよ。』


龍賢は苦しげに息を吐き、視線を逸らす。


アスは静かに、しかし確実に距離を詰めるようにして言う。

『ぼくはお姉さんには幸せになって欲しい。

兄ちゃんにもね…』


その声は柔らかく、でもどこか底知れない。

龍賢は顔を上げ、しばし沈黙ののち、かすれ声で答えた。


『ありがとう』


雪は静かに降り続け、夜は深く沈む。

朝は確かにやってくるけれど、

露葉はまだ病院の中、時の中に取り残されている。



雪は降り続き、夜は深い。

アスの言葉の余韻だけが、龍賢の胸に残る。

答えも救いもない。ただ、生きる誰かの存在を感じるだけだ。

世界は形ばかりで、意味は人それぞれ。

ぼくらはただ、それを静かに見つめる。



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