第209話『冬祭り④記憶』
冬の夜、町の光は静かに揺れ、雪の匂いが混ざる。
冬祭りのざわめきと温もりの中、それぞれの心を抱え歩く者たち。
光と影、声と沈黙の間で、彼らは何を見つけるのだろうか。
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帰り道、龍賢は町の店で食事をテイクアウトした。紙袋の温もりがほんのりと車内に香りを満たす。
助手席には露葉が座り、頬杖をついたまま、窓の外を見ていた。街灯の光がガラス越しに揺れ、露葉の横顔を時折白く照らす。
アスは後部座席からその姿を見つめた。
表情は淡々としているのに、どこか心の奥で考えごとをしているように見えた。
何を見ているのか――遠い視線に、アスは言葉をかけられずにいる。
車内は沈黙に包まれていた。
タケルがアスの耳元で囁く。
「ねぇアス…ぼくさっき…』と言いかけてやめて別の言葉を言った。
「兄ちゃんたち、どうしたのかな…」
アスは小さく肩をすくめ、外を見たまま答える。
「さぁ。でも、何かはあったのかもね」
「大丈夫かな。兄ちゃんでもケンカってするんだね」
アスは少し笑い、目だけでタケルを見た。
「ケンカしてるの?」
「はぁ? どう見てもケンカでしょ。ケンカじゃなかったら何?」
タケルは声を潜めつつも呆れ気味に言う。
アスは窓の雪を追いながら、ぽつりと漏らす。
「じゃあ、どっちが強いかな…」
タケルは二人を見比べ、眉を上げて即答した。
「絶対、お姉さん!さっきめちゃくちゃ怖かったもん」
その時、露葉が静かに言った。
「聞こえてる」
アスとタケルは一瞬固まり、目を合わせて小さく笑った。
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龍賢の家に着くと、四人は温かさを求めるように居間へ集まった。
紙袋から食事を並べると、香ばしい匂いが広がる。
「ぼく、お腹空いた!」
タケルは声を上げて手を伸ばす。
「タケル。いただきますは?」
龍賢の声が強く響いた。
タケルは慌てて手を引っ込め、箸を置いて手を合わせた。
「いただきます」
アスはそのやりとりを見届けてから、静かに両手を合わせて食事をとり始めた。
けれど、視線の端ではずっと露葉を気にしていた。
露葉は背を壁に預け、片膝を立てて座っている。
口を開くこともなく、食事に手をつけることもない。
時折、横顔が窓の方を向き、頬や顎のラインに外の淡い光が差す。
龍賢を見ることもあるが、その目は遠くを見ているようで、ここにいない誰かと語り合っているかのようだった。
食卓の賑わいは一瞬で沈黙へと変わり、二人の間には言葉の橋がかからなかった。
やがて時間が流れ、露葉は膝を崩して立ち上がる。
「私、帰る」
アスは本を開いていたが、その声に視線を上げた。
「露葉…今日はもう夜遅いから」
本を読んでいた龍賢が振り返って声をかける。
露葉はアスを見やり、柔らかく微笑んだ。
「またね、アスくん」
そして龍賢に向き直り、淡々と告げる。
「一人でいたいから、帰るね」
足音が廊下に消えていく。
龍賢はいったん居間に戻り、テーブルの上の車の鍵を取ると、急ぎ足で玄関へ向かった。
戸が開き、冷気が差し込む音がして――彼は露葉を追いかけて行った。
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間もなく、お風呂から上がったタケルが居間に顔を出す。
「兄ちゃんは? お姉さんは?」
アスは本をめくりながら、声を落とす。
「兄ちゃんがお姉さんを家まで送っていったよ」
「やっぱり、ケンカしてるじゃん。お姉さん、相当怒ってた。兄ちゃんが悪い。絶対そう。」
タケルは頬を膨らませた後、ふっと笑みを浮かべる。
「でもさ、綺麗だったね。
冬祭り。なんか不思議なお祭りだった。でもいいね」
アスはページから視線を外し、窓の外の暗闇を見つめる。
「うん。綺麗だったね。変わらない町の、昔から続く行事って…」
「ときわ…」
タケルは小さく呟き、目を擦る。
「兄ちゃんが帰ってきたら起こすから、寝てたら?」
アスが言うと、タケルは頷きながら隣の部屋に向かっていった。
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どれほど時間が過ぎただろうか。
玄関の戸が開く音がし、湿った雪の冷気が流れ込む。
その後、床板を踏む音が風呂場の方へと消えていく。
アスは読んでいた本をそっと閉じた。
縁側に歩み寄り、窓を開けて腰を下ろす。
夜気が頬を刺し、空には白い雪が静かに舞っていた。
息を吸い込むたび、胸の奥に冷たさが突き刺さる。
それは苦しくもあり、どこか懐かしい。
――あの高台の病院を、自然と思い出していた。
「まだ起きてたのか?」
振り返ると、湯上がりの龍賢が立っていた。
アスの隣に腰を下ろし、静かに息を吐く。
「ごめん」
アスは横目で兄を見る。
「なんで兄ちゃんが謝るの?」
「いや…」龍賢は短く答え、言葉を切った。
「露葉が暫く一人でいたいって。結婚は…」
「今日、喜ぶと思ったんだけど…」
彼の瞳は揺れ、笑みはどこか寂しい。
アスは黙って見つめる。
「兄ちゃん。マルテの手記って知ってる?」
アスはふいに切り出した。
龍賢は顔を上げ、首を傾げる。
「ライナー・マリア・リルケ?」
「うん。兄ちゃんは、マルテの手記どう思った?」
「孤独で、美しくて、悲しいけど綺麗…。だったかな多分。
だいぶ昔に読んだから、正直もう忘れかけてる」
アスは空に手をかざす。
「雪が強くなってきたね」
二人の間に静かな沈黙が落ちる。
雪は音もなく、縁側を白く染めていった。
その沈黙を破るように、アスは再び龍賢に向き直り、静かに語り始めた――。
祭りの光も、テイクアウトの香りも、やがて日常のひとコマへと溶けていく。
雪が静かに舞う夜、窓越しの景色は、胸の奥に残る小さな記憶のようだった。
移ろうものの美しさ、言葉にならない想い――その間を歩きながら、彼らはそっと前を向く。
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