第208話『冬祭り③記憶』
冬の夜、町の光は柔らかく、心を包むように揺れていた。
冬祭りのざわめきの中、それぞれの想いを抱え歩き出す。
光と影、笑い声と静けさの中で、彼らは何を見つけるのだろうか。
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「着いたよ」
いつの間にかうとうとしていた露葉を、龍賢はそっと揺さぶりながら起こす。夜の空は深く澄み、道の先に冬祭りの光が淡く揺れていた。
タケルは車のドアを開けると、冷たい空気に包まれながらも目を輝かせて外に出た。
「わぁ、すごい…」
アスも静かに車から降り、光が灯る出店の列を見つめる。寒さの中に柔らかい温もりが混ざるような、そんな空気だった。
龍賢は露葉の手に軽く触れ、歩幅を合わせながら前へ進む。露葉は足元を確かめるように歩きながらも、遠い目をして何かを考えているように見えた。
人々のざわめき、笑い声、風に揺れる提灯。お面をつけた町の人々がゆっくり歩き、タケルの目の前を小さな子どもたちが駆け抜ける。
「この祭りはね、ここに住む人たちがみんなお面をつけるんだ」
龍賢の声は穏やかだが、冬の夜気に溶けるように静かに響いた。
「へぇ〜じゃあ、さっきすれ違ったのは町の人なんだね」
タケルが顔を上げると、龍賢は少し微笑んでうなずいた。
「でもね、まだ続きがあって、死者もこのお祭りに紛れるんだって」
その言葉に、タケルの背筋がすこしだけ寒くなる。
「え…?なにそれ、怖い…なんでお面?」
アスは静かに言った。
「生きている人に思われたいからだよ」
「そう。死者は死者だと見た目でわかってしまう。だから今日だけは、町の人たちが協力して、死者のためにお面をかぶるんだ」
龍賢の瞳は凛とし、言葉の端々に静かな覚悟が滲んでいる。
露葉はそっとつぶやいた。
「優しいね」
冬祭りの入口で提灯を受け取り、募金箱に小銭を入れる。人が多いのに、どこか静謐な空気が漂っていた。テキ屋が並ぶ道を歩きながら、タケルはりんご飴を買い、食べながら歩き人混みを観察する。目の前をお面をつけた子どもたちが通過し、露葉は無意識にその動きを追った。
少しよろけた露葉を、龍賢は腕を掴むようにして支えた。
「こっちに氷の彫刻がある。彫刻家の卵たちの作品だそう。露葉が好きそうなやつ」
タケルとアスもその方向に目を向ける。ライトに照らされた氷の彫刻は、透明で冷たく、でもどこか温かい光を放っていた。
露葉は龍賢の手を離し、ポケットに手を入れ彫刻を見つめる。目は遠くを見ているようで、しかし動く光に一瞬だけ心を揺さぶられる。
「氷の作品は、この時期、この場所でしか見られないから見せたかった。」
龍賢は静かに微笑みながらタケルとアスを見たあと、露葉の瞳を覗き込む。
「露葉どう?」
露葉は言葉少なに、氷の天使の彫刻を見つめながらつぶやいた。
「…綺麗。溶けて消えてしまうのが寂しいね」
その瞬間、タケルが指をさして言った。
「ねぇ、あそこ、山の上に教会があるよ。ライトアップされてる。聖母マリア像まで輝いてる!」
龍賢が静かに言う。
「そこは教会じゃなくて病院だよ」
「へぇ、でもすごく綺麗。元気になれそうだね。ときわ市って初めてだけど、いい町だね」
露葉はふっと息を整え、病院の明かりを見つめる。その瞳に、わずかに震えが混ざった。
「…ときわ市?」
露葉が静かに呟く。その声は祭りのざわめきに溶けそうに小さかった。
「うん。ときわって、永久に変わらないことを意味するんだ。この町も、ずっと変わらない良さがあるよね」
龍賢は微笑み、病院の方へと目をやった。
アスは横目で露葉を見た。露葉は息を整えながら病院の光を見つめている。肩がかすかに震えていた。
「ねぇ…
どうして日本の病院なのに聖母マリア像があるのかな」
その問いは、かつてアスが露葉に投げたものと同じだった。アスの胸に記憶がよみがえる。
龍賢は穏やかに答える。
「聖母マリア様は救済に深く関わる存在だから。救う心に、国は関係ないよ」
露葉は病院を見つめたまま、吐息と共に言葉を落とした。
「救いって…何?」
「苦しみからの開放かな」
龍賢の声は静かだった。
冷たい風が龍賢と露葉の間を通り抜ける。
「開放って、……死ぬこと?」
露葉の囁きに、龍賢の表情がふと引き締まる。祭りの灯りがその横顔に影をつくった。
「死は開放じゃない。次の生へと移っていく過程」
露葉は息をひとつ整え、なおも病院を見つめる。
「じゃあ、いつ開放されるの?」
アスの脳裏に、あの日の光景がよみがえった。
病院のベンチにひとり座り、母の生死を見つめていた露葉の遠い背中――。
「生きている間でも、怒りや悲しみ、嫉妬や不安、執着を手放せた時。心は軽くなる」
龍賢の声は澄んでいた。
露葉はしばらく沈黙していたが、やがて龍賢へと顔を向けた。瞳は普段と違い、かすかな怒りを帯びていた。
「龍賢に、何がわかるの?」
「露葉、どうしたの。露葉らしくない」
龍賢はそっと彼女の手に触れた。
「私らしさって、なに?」
露葉はその手を払い、まっすぐに龍賢を見つめ返す。
龍賢も目を逸らさずに問う。
「露葉、誰に怒っている?」
露葉は息を吸い、瞳を閉じてから再び見開いた。
「…うるさい。全部うるさい。」
震える唇がそう告げる。左腕を右手で抱きしめるように押さえながら、少し声を張った。
「怒ってない。ただ苦しいだけ」
その姿を見つめながら、龍賢はなおも揺らがぬ声で言った。
「失いたくないものにしがみつくと、苦しみは消えない。もっと苦しみが生まれる」
アスが思わず口を開きかけたその時、タケルが袖を引き、耳元で囁いた。
「…ぼくたち、あっちに行っとこう?」
二人は彫刻の並ぶ近くのベンチに腰を下ろし、静かに兄と露葉のやりとりを見守った。
タケルはふらっとどこかへ行ったけどいつの間にかアスの隣に戻ってきていた。
冬祭りの光とざわめきの中で、露葉はポケットに手を入れたまま、病院を見つめ続けていた。
祭りの光と氷の彫刻は、やがて溶けて消えていく。
人の心もまた、形あるもののように移ろいやすい。
夜空の提灯は、抱えた想いをそっと映す鏡のようだった。
消えるものの美しさと、まだ手にできない切なさの中で、私たちは前に進む。




