第205話〜彼女の記録『左手』
人は生まれる場所を選べない。
けれど、その重さの中で、どう生きるかは選べる――
露葉の夜は、その問いとともに始まる。
若林さんの誕生会の余韻を胸に、露葉はゆっくりと自宅兼お店の駐車場へ車を滑り込ませた。
フロントガラスの向こうには、夜の帳に沈みかけた街の光。遠い笑い声の余韻が、まだ耳に残っている。
彼女はエンジンを切ると、ふと思い出したようにステレオをつけた。流れてきたのは「ジュ・トゥ・ヴー」。
若林の祖父が弾いていた、あのやわらかな旋律。
鼻先で軽く歌うように、露葉は小さく鼻歌を合わせる。
グローブボックスを開けると、小さなケースが眠っていた。
数日前に龍賢から渡された婚約指輪。
その時の自分は、くすぐったさと照れに負け、指にはめることもできず、ただここへ押し込んでいた。
今、ゆっくりと取り出し、左の薬指へ差し込む。
指輪は、闇に沈む車内で淡く灯り、ダイヤモンドがひとつ、夜空の星のように瞬いた。
――『露葉が嬉しそうにしてるのが、俺は一番嬉しいよ』
あの日、龍賢が目を細めて微笑んで言った言葉が蘇る。
その眼差しは、母を思わせるようなやわらかさを含んでいて、年齢よりも老成した静けさを纏っていた。
高い背をすっと屈め、話すたびに耳を傾けてくれる姿。
酒を口にせず、肉も食べず、飾り気のない衣服をまといながら、そこに確かにある人の落ち着き。
その質素さこそが、彼の魅力なのだと露葉は思っている。
そっとハンドルから手を離し、外に出た瞬間――。
別のエンジン音が響いた。
父の古びた車が駐車場に滑り込み、ぎしりとブレーキの音を立てて止まる。
慌ただしく降りてきた父が、露葉へ駆け寄る。
「今月は大変やった。来月から、良くなる」
唐突に吐き出された言葉。
露葉は、わずかに視線を上げて短く答えた。
「そう」
トランクに手を伸ばし、荷物を取る。
深く息を吐きながら、ため息のように問う。
「いくら?」
「3万」
父は嬉しそうに答える。その目はどこか濁っていて、金額を口にする瞬間だけが生き生きとしていた。
露葉は財布から三万円を取り出し、無言で差し出す。
父は慌ててそれを掴み、自分の財布に押し込みながら、さらに勢いづいたように言った。
「露葉、龍賢くんと結婚はいつ? 龍賢くんのお寺はどこ? お父さんも連れていってよ。親戚になるんだから」
「いつか」
淡々と返す。
父はにやにやと歯をむき出して笑った。
抜け落ちた歯の間から、だらしなく覗く口腔。
白髪の頭を無意識に掻きながら、小太りの体を揺らして立つ姿は、見慣れた不快そのものだった。
三白眼の視線が、ねっとりとこちらを舐めるようにまとわりつく。
子どもの頃から嫌悪した目。
その目に捕らわれると、胸の奥がざらついて、呼吸が浅くなる。
露葉は瞼を閉じ、わずかに息を整えた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
父の声は心配ではなく、探りを入れるような調子だった。
「うん。具合悪い」
淡々と答えると、父はじろじろと見まわし、勝ち誇ったように言う。
「あんた痩せすぎてるから体力ないんだよ。お父さんなんてこんな年でも体力あって頑張ってるぞ」
ニタついた笑み。
さらに畳みかける。
「おまえは頑張ってないやつなのに、お金もってそうな人と結婚できそうで、よかったね、」
「うん。頑張ってないね。」
素っ気なく返す。
父はヘラヘラ笑いながら続ける。
「お前の兄ちゃんも頑張らんやつだった。はぁ、お父さんは大変だよ。まったく。」
「お母さんも『オレより先に逝くなよ』って言ってたのに、先に逝きやがって。はぁ、お父さんは大変。金でも落ちてないかな」
軽薄に笑いながら、わざとらしく空を見上げる。
「かえろっと」
くるりと背を向け、だらだらと歩き出したが、ふと立ち止まる。
露葉の左手に光る指輪を指差し、
「お前なんかに高そうな指輪買ってくれたんだね? お金、もったいない。まぁ、よかったね。あんた。」
そう言って車に乗り込み、こちらをじろじろと見ながら、クラクションを鳴らし、不快な笑みを浮かべて去っていった。
***
呪いのようにまとわりつく血。
容姿は似ていなくても、親子という事実だけは覆せない。
――あいつが嫌いだ。
だから、あいつから生まれた自分も嫌いだ。
母じゃなくあいつが死ねば良かったのに…
命が変えられたらいいのに…
露葉は右手で左腕を掻きむしる。
爪が皮膚を削り、赤い線が浮かぶ。
それでも足りない。
息を整えようとしても、感情は追いつかず、ただ荒れていくばかり。
掻きむしる。掻きむしる。
――いっそ、この左腕を切り落としてしまえたら。
そうすれば、少しは楽になれるのかもしれない。
夜気が重くのしかかり、遠くの街灯が滲んで揺れていた。
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血も過去も、すぐには消えない。
それでも、小さな光を見つめることで、
人はまた、かすかに息を取り戻していく。




