第204話〜アスの心『ときわ市④ マルテの手記』
失われていくものを前に、人はときに嘘を選ぶ。
それは弱さかもしれないし、同時に深い愛のかたちなのかもしれない。
ぼくは祖父に問う。
「ねぇ……どうしてお母さんは、病院に一度も行こうとしなかったの?」
祖父はしばらく黙し、深く刻まれた皺の中に淡い微笑を忍ばせ、低く答えた。
「ひなこさんはね、時生を……アスのお父さんの
ことを、小さい頃からずっと
本当に好いていてね」
その声に滲んだ震えが、ぼくの胸を刺した。
祖父の顔はさらにしわを深くし、その谷間をひとすじの涙が流れ落ちた。
「若すぎる年で子を持って……それでも誰に何を言われても幸せそうだった。
……可哀想に、ひなこさん。可哀想に……」
その言葉はまるで祈りのようであり、同時に諦めのようでもあった。
母は、父の葬式に現れなかった。
亡くなったという知らせを聞くや、声を枯らして泣き叫び、母の嗚咽は壁を震わせ、悲しみは空気を切り裂く。
地べたに崩れ落ち、声を失い、
そしてぼくたちを見失った。
母にとって、父はすべてだった。
だから、父を失った瞬間に、母もまた失われたのだ。
やがて母は倒れ、病院に運ばれた。
父方の祖父母が交互に泊まり込み、ぼくたちの世話をした。
その日々はひどく長く、ぼくたちは母の帰りを待ち続けた。
そしてある日、母は突然帰ってきた。
「お父さんお母さん、長い間、息子たちをありがとうございました。ごめんなさい」
深々と頭を下げる母に、祖父母は笑みを浮かべ、そっと肩に触れた。
「時生は……また出張なのね。
あの人はほんと…でも私がしっかりしなきゃ時生に怒られるわね。」
母はかすかに笑い、少女のように澄んだ瞳を細めた。
その笑みは、あまりにも儚く、冗談にしては笑えず、真実にしてはあまりに残酷だった。
祖父母は目を合わせ、言葉を失った。
母は静かに、ゆっくりと、壊れていった。
弟に障害があると分かったときも、母は同じように壊れた。
母は弱い。悲しいほどに、弱くて、脆い。
壊れてしまわないように――忘れることで母はすでに壊れている。
けれど、真実を思い出すことで、もっと深く壊れてしまう。
その残酷な二重の檻の中で、母は呼吸をしている。
だからぼくは誓うよ。
父がいない現実を母に気付かれないようにしようって。
嘘をついてでも、母を守るよ。
祖母は涙を浮かべ、何かを言いかけたが、祖父がそっと手で制した。
そして母の幻想を壊さぬよう、静かに言葉を添えた。
「ひなこさん……いつも時生が迷惑ばかりかけて悪いね。あいつは仕事ばかりで家をあけて困ったもんだ。早く帰ってくるといいね」
父がいるふりをする祖父。
母は頷き、「でも幸せよ」と微笑んだ。
その笑みは、まるで祭壇に灯された蝋燭の炎のようだった。
触れればすぐに消えてしまうほどに儚く、けれど一瞬だけ確かに、温かさを放っていた。
母がこれ以上壊れないように――ぼくたちは嘘をついた。
ただ、母とともにいたかった。
祖父母は帰り際、ぼくを抱きしめて「アス……小さいのにごめんね」と呟いた。
嘘は環境がつくる、とぼくは思った。
嘘をつかずにすむ人は、きっと幸福な場所に生きているのだろう。
でも、ぼくは嘘をつく。壊れないために。愛する人を守るために。
***
ふと、思い出す。
あの人はいま、どうしているのだろう。
幸せに暮らしているのだろうか。
――ねぇ、つゆは。
ぼくは、彼女が執拗に読み続けていた本を開く。
『マルテの手記』
ページの白と黒の隙間から、あの夜の病院の雨と雪の匂いが蘇る。
雷鳴に揺らめく光と影。
「死」とともに佇み、「死」とともに呼吸をしていた女の人。
つゆは。
いまもなお、ぼくのなかで静かに祈るように呼吸を続けている。
――
「愛されることは、燃えつづけることでしかない。
愛することは、暗い夜にともされたランプの美しい光。
愛されることは消えることだけど、
愛することは永い持続……」
――ライナー・マリア・リルケ
その言葉は、露葉の声のように胸の奥で反響した。
雪の降る静けさの中で、ぼくの心にひどく切なく灯り続けていた。
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雪のように消えていく記憶の中で、それでも灯り続ける光がある。
たとえ脆くても、その灯は生きるために必要な祈りなのだ。




