第203話〜アスの心『ときわ市③ 万華鏡の中で』
雪と雨の境目で、ぼくは「つゆは」という女性に出会った。
彼女の言葉は、死の影と生きる痛みを、透きとおるように映し出していた。
雨が降っていた。
院内はいつもより少し薄暗く、空気そのものが湿り気を帯びて沈んでいる。
遠くで雷鳴が腹の底を震わせるように低く響き、
稲光が走るたびにステンドグラスの聖母像が一瞬だけ別の顔を持ち、
壁や床には幻のような色彩が揺れて落ちた。
まるでこの建物そのものが呼吸をし、苦しみに身をよじらせているかのようだった。
ぼくはいつものベンチに腰をかけ、足をぶらぶらと揺らしながら、絵を見て歩く彼女を眺めていた。
黒いロングコートのポケットに手を突っ込み、一枚一枚に目を落とす真剣な横顔。
漆黒の長い髪は適当に束ねられ、少し濡れて額に貼りついている。
立ち姿は少年のようにすらりと痩せ、雨に濡れた光を受けると、影と肉体の境が曖昧になり、今にも消えてしまいそうに見えた。
ベンチには、いつも読みふけっているボロボロの本と、無造作に置かれた車の鍵。
背表紙に擦れて消えかけた文字を、今日は目を凝らして読むことができた。
――「マルテの手記」
彼女はその本と鍵を手に取り、ポケットへしまい、ためらいなくぼくの隣に腰を下ろした。
外では雷鳴が地を裂くように轟き、院内には雨粒と雪片の音が交じり合って届く。
その音を背景に、彼女はふと呟いた。
「……ホスピタルアートって、あたたかいね」
ぼくも壁にかかる絵を見回した。
淡い色彩はたしかに優しく、冷たい病院の匂いをわずかに和らげていた。
けれど、ぼくは彼女を見ながら言った。
「でも……つゆはは全然、あたたかそうじゃない」
彼女は目を閉じ、「そうね」と無感情に返すと、耳を澄ませるように静かに黙った。
外では雪と雨が混じり合い、聖母像は雷の閃きのたびに異形の影を落とす。
不意に、彼女が口を開いた。
「……呼吸器を外す同意をしたの」
「こきゅうき?」
ぼくは聞き返した。
「うん」
短い返事のあと、沈黙が重く落ちる。
彼女は深く息を整え、かすれた声で続けた。
「命の……ツナ」
その言葉は、まるで自分自身を呪う祈りのように震えていた。
「つゆは、家族はいないの?」
しばしの間のあと、彼女は目を伏せて答えた。
「いるけど……いない。いるけど、いないのと同じ。誰も来ない。」
唇がわななき、声は途切れ途切れになった。
「別れの日まで……どうして私が決めなきゃいけないのかな。……でも、もう」
彼女は苦しげに笑い、かすれた声でつぶやいた。
「疲れた」
そして右手で左腕の袖を乱暴にまくり、白い皮膚を爪で掻きむしる。
稲光に照らされたその腕には、古い傷跡と新しい傷口が幾筋も刻まれていた。
皮膚を裂くことでしか保てない心。
その残酷さに、ぼくの胸もひりついた。
思わず、ぼくはその手を握った。
彼女はなおも掻き続けようとしたが、ぼくが少し強く握ると、その動きは止まり、
代わりに、彼女は力なくも握り返してきた。
雨は雪へと変わり、窓越しに冷たい空気が忍び込んでくる。
雷鳴は遠ざかり、ただ白い雪だけが、静かに、無慈悲に降り続けた。
***
翌日、彼女はそこにいなかった。
ぼくはひとり、彼女がいつも座っていたベンチに膝を抱え込み、じっと周囲を見回した。
ここで彼女は何を見て、何を思っていたのだろう。
部屋の壁いっぱいに、光と影が複雑に交差していた。
それは単なるステンドグラスの反射ではなかった。
天窓からの光が幾重にも反射し合い、円形の壁に砕け散って、
まるで万華鏡の内部に迷い込んだような空間をつくり出していた。
一瞬ごとに色と形を変えるその光景は、死の断片を映す鏡のようであり、
同時に、生き残った者の胸に永遠に刻まれる痛みの結晶のようでもあった。
――その日のうちに、父は亡くなった。
雪はまだ静かに降り続き、
まるでこの世のすべてを覆い隠し、
声も祈りも涙さえも、白の奥へ沈めようとしていた。
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別れは雪のように静かに降り積もる。
けれど、その中で交わった手の温もりは、消えずに心に残り続ける。




