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第202話〜アスの心『ときわ市② 矛盾』

雪の降る町の病棟で出会った少女――つゆは。

彼女の言葉と沈黙は、幼いぼくに「生きること」と「死ぬこと」の矛盾を映していた。


中庭には、手入れの行き届いたバラ園が広がっていた。

冬のいまは枝ばかりが迷路のように絡み合っているが、春になればここに無数の薔薇が咲き誇るのだろう。

その中心には、雪を被った聖母マリア像が佇んでいた。

冷たい空気のなかで、その表情だけはやわらかく、人を赦すように微笑んでいる。


「なんで日本なのに、病院にマリア様がいるんだろうね」

ぼくが不思議そうに言うと、彼女は視線を像に向けたまま、小さく答えた。


「現実から…逃げたくなるから」


「なにそれ」

ぼくは思わず笑った。

その笑い声が雪空に吸い込まれ、すぐに消えていった。


***


いつもの場所。

ベンチに腰かけていた彼女は、ぼくに気づくと少し笑みを見せ、白い手を小さく振った。


真っ白のロングコートに白のパーカー、白のパンツ。

まるで雪の化身のようにそこにいて、足を組み片手で本を持ち、淡々とページをめくっていた。

紙をめくるその仕草が、静かな病棟の時間をひとしずく動かす。


ぼくは彼女の隣に腰を下ろす。

二人の間に流れる沈黙は、氷に閉ざされた湖のようで、不思議と心地よかった。


「お姉さん、名前なんていうの?」


彼女はボロボロになった本に付箋をはさみながら、

「つゆは」

と、興味なさそうに答えた。


「つゆは」

ぼくはその音を口のなかで転がすように呼んだ。


「なに?」

視線を本から上げずに彼女が応える。


「呼んだだけ」

ぼくはクスっと笑った。


「つゆは」

もう一度呼んでみる。


「なに?」

また同じ調子で返ってくる。


「呼んだだけ」

ぼくは今度は声を殺して笑う。


三度目。

「つゆは」

ぼくが静かに呼ぶと、彼女はふと本を閉じ、膝を片方立てて身をかがめ、覗き込むようにぼくを見た。


「なに?」

その声はさっきより少しだけ、やさしかった。


ぼくは口を開いた。

「死んだら…ぼくのお父さんはどこへ行くのかな?」


つゆはは言葉をすぐには返さず、遠くにあるマリア像をしばらく見つめていた。

そして独り言のように呟いた。


「どこにもいかない。なくなるだけ。

私たちもいつか消える。

生きるって…虚しいね」


そう言って息を整え、本をまた開いた。

紙の音が冷たい空気にひらひらと溶けていった。


ぼくは何も言えず、ただ隣に座っていた。

窓の外は晴れているのに、静かに雪が舞っていた。

光に透ける雪は、消えていく魂の欠片みたいに見えた。


やがて、つゆはは本を置き、両足を抱えこんで座り直す。

瞼を伏せ、小さな声で言った。


「母がね、入院してる。

もう歩くことも、立つこともできない」


ぼくは無意識に父を思い出した。

痩せ細った身体。

薬の副作用で抜け落ちた髪。

膨れあがった腹。

残りわずかな命の影が透けて見える姿。


つゆはは、肩で息をしながら続けた。


「会いたい。でも会いたくない。

ずっと苦しんでる。楽になって欲しい…でも苦しんで欲しくない。

でも、いなくなると寂しい。

それでも…いなくなって欲しい」


「…もう、疲れた」


そう呟き、右手で左腕を抱くように押さえながら、僅かに震えていた。


***


父の病室。

そこには給食と薬品と、膿のような独特の匂いが充満していた。

これが、死の匂いなのかもしれない。


機械がシュパシュパと規則正しく音を立て、透明な線が父を縛るように繋いでいた。

その姿を見るのが、少し怖かった。


父の元気な姿を、ぼくはほとんど知らない。

弟が生まれて間もなく、父は病気になり、祖父母の家で暮らすようになった。

たまに玩具や花束を抱えて現れるその人は――ぼくにとって「父」というより、知らないおじさんのようだった。

でも母が嬉しそうに笑うから、ぼくも嬉しかった。


眠る父の横で、ぼくは祖母に訊いた。


「ねえ、おばあちゃん。

いて欲しいけど、いなくなって欲しい。

会いたいけど、会いたくないって…どんな気持ち?

矛盾してるよ」


祖母は痩せ細った父の手を握りしめ、涙をすっと流しながら答えた。


「人はね、矛盾だらけなのよ。

…大人になったらアスもわかるわ」


祖母の手に包まれた父の指は、祖母よりも細かった。

その光景を見ながら、ぼくは思う。


――つゆはの悲しみと祖母の悲しみは、きっと同じ色をしているのだ。


晴れているのに降る雪。

それは彼女や祖母が抱える矛盾そのもののように、ただ静かに降り続いていた。




---


消えていくものを前に、人はみな矛盾する。

それでも誰かを想い続ける時間こそが、私たちを生かしているのだと思う。



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