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第201話〜アスの心『ときわ市① 命の時間』

雪に包まれた小さな町で出会った、ひとりの「お姉さん」との記憶。

これは、死と生のはざまで交わった、静かな光の物語です。


ときわ市という人口が極端に少ない町がある。その町の高台に、その建物はひっそりと息をひそめていた。

緩和ケア病棟――けれど、一瞬ではそれと気づかない。

雪に包まれたその外観は古い礼拝堂のようで、沈黙そのものが壁を形づくっているようだった。

二年前の冬、ぼくはそこで彼女に出会った。


院内へ足を踏み入れると、空気は冷たく澄み、どこか薬草のような匂いが漂っていた。

遠くからオルゴールのようなクラシックが流れ、白い壁には美術館のように絵が掛けられている。

廊下を進むたび、すれ違う人々の肩には涙の跡が光り、すすり泣きが後ろ髪を引く。

ぼくは祖父の背中を追いながら、その奥へと歩いていった。


建物の一角に、小さな木のベンチが置かれていた。

窓から射し込む冬の光が床を染め、ステンドグラスに反射した色彩は、祈りの欠片のように壁に散った。

その場所に、彼女はいつもいた。


漆黒の長い髪に、白いスウェットにパンツ。

飾り気のない姿で両足を抱え、膝に古びた本を置いている。

ページをめくる指先は薄氷のように細く冷たそうで、紙の擦れる音が空気をひとしずく揺らした。


「なに読んでるの?」

ぼくが声をかけると、彼女は顔を上げ、まっすぐぼくを見つめ――

すぐに、色硝子に滲む光へ視線をそらした。


「…古い本」


その一言だけを残し、本を閉じずに指で挟んだまま、雪の降りしきる窓の外を見ていた。


ぼくは彼女の隣に腰を下ろす。

壁に散った色彩が、呼吸のたびに小さく震え、まるで万華鏡の中に迷い込んだようだった。


ふいに、彼女が口を開く。

「…お母さんとお父さんは?」


「おじいちゃんと来てる」

そう答えると、彼女は小さく「そう」と呟き、またページをめくった。


「お姉さんは、ひとり?」

「うん。ひとり」


彼女は髪を耳にかけ、まつ毛を伏せ、呼吸を整える。

その間に広がる沈黙が、不思議と心に沁みていった。


――「帰るよ」

廊下に祖父の声が響く。

ぼくは立ち上がり、「またね。お姉さん」と言って駆けていった。


***


次の日も、彼女は同じ場所にいた。

昨日と同じ本を抱きしめるように持ち、同じ姿勢で小さくなっている。


「お姉さん、今日もひとり?」

「毎日ひとり」


髪をひとつに束ね、白い耳に小さな赤い石のピアスが揺れていた。

その赤は、冬の曇り空の下でもかすかな灯りのように見えた。


彼女がポツリとぼくに問う

「お見舞い?」

「うん。お父さんのお見舞いに、おじいちゃんと」

「…そう」


吐き出す息が、かすかに震えていた。


沈黙が流れ、彼女は指を伸ばした。

「…万華鏡みたいね」


指さす先で、ステンドグラスの光が幾重にも揺らぎ、形を変えていく。

言葉はなくても、その光を分け合うだけで、二人には十分だった。


――「帰るよ」

祖父の声。

ぼくは立ち上がり、「ばいばい。お姉さん」と小さく手を振った。


***


次の週。

病棟の廊下には、誰かの嗚咽が染み込んでいた。

肩を抱かれ歩く家族とすれ違うと、胸の奥が波立つ。


それでも彼女は変わらず、同じベンチにいた。

頬をうっすら赤らめ、雪明かりのように静かに座っている。


「お姉さん、毎日来てるの?」

「うん」


「お姉さん、千変万化って知ってる?」

ぼくが言うと、彼女は初めて顔を上げ、光の揺らぎをじっと見てしずかにいった。


「…万華鏡みたいなこと」


「うん。万華鏡って、人みたいだね」


彼女の瞳は黒曜石のように深く、見ているのに、どこも見ていないようだった。


「どうして、小さいのにこの病院によく来るの?」


ぼくは少し笑って答える。

「死ぬ場所だから?」


彼女は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。


ぼくは光に手をかざす。

「冬の光って、温かい」


彼女も同じように手を伸ばし、

「そうだね」

と重ねた。


言葉は少なくても、彼女といる時間は柔らかだった。

隣に座り黙っているだけで、心が静まり、死の気配さえも遠のくように思えた。


彼女の見ているものと、ぼくの見ているもの。

その重なりの中で、幼いぼくは確かに――同じ世界に立っているのだと感じていた。



---


消えていくものの中にも、心に残る色がある。

その一瞬を分け合えたなら、それは永遠に近い輝きなのかもしれません。

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