第198話『友達の誕生日③ みどりのひかり』
人には時に、言葉ではなく“光”や“香り”でしか伝わらない感情があります。
秋の朝、露葉が車で迎えに来た瞬間、タケルの胸に走ったチクリとした痛みもその一つ。
そして彼女を見つめる若林色のまなざしもまた、ただの言葉では言い表せないものでした。
今回のお話は、そんな“胸の奥にひそむ感情”がそっと交わる一日です。
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タケルの家の前に、ベージュの車が静かに停まった。
珍しく自ら運転してきた露葉は、普段より少し大人びた空気をまとっていて、タケルは胸の奥が少しチクリとした。
「おはよう、タケルくん、アスくん」
露葉は片手でドアを押さえ、柔らかく微笑んだ。
アスはまだ眠そうに、まぶたをこすりながら短く「おはよう」と返す。
タケルも小さく笑い、車を見上げた。
「おはよう。お姉さん、車だとなんだか大人って感じ」
露葉はクスクスと笑い、肩をすこし揺らす。
「少し遠いから」
二人は車に乗り込む。アスはタケルの肩に頭をのせ、まどろむ。
タケルは少し緊張し、視線を窓に落としながら、口元だけで微笑む。
車内には金木犀の香りがかすかに漂い、窓の外の街路樹が揺れる。柔らかな光が差し込み、静かな音楽が空気を満たす。
「ふたりとも、着いた」
露葉の声に、タケルは肩を揺らして顔を上げる。
高台に建つ建物は、朝の光を受けて穏やかにたたずむ。瓦屋根の陰影が長く伸び、白い壁に映る木漏れ日が揺れる。
タケルは息を飲んだ。
「わぁ、すご〜い…」
アスは石畳を踏み、静かに歩きながら建物を見上げる。
「ここだけ、時間の流れが違うね」
露葉も肩を揺らし、嬉しそうに頷く。
「うん。素敵なお店…」
三人は入り口の扉を押し、中に入った。
店内は大正時代のモダンレトロが柔らかく溶け込む。黒と白、深緑で統一された空間。天井のシャンデリアの光が、壁や床を優しく撫でる。
露葉は手を胸の前で重ね、目を輝かせた。
「わぁ、竹下夢二の絵まである…」
タケルは足元のカーペットの縁を見ながら声を上げた。
「何から何まで、すごいね!」
アスは壁沿いをゆっくり歩き、額縁の縁に指先を添える。
「お姉さん…こっちにも絵がある」
髪がなびく黒髪の少女が横向きに立つ一枚の絵。深い緑色の着物が光を受けて揺れる。
露葉は息を飲み、少し前傾で見つめる。
「綺麗…初めて見る」
アスは近づき、目を細めて呟いた。
「この絵のひと…」
タケルの心が熱くなる。
「若林さんに似てる!」
後ろから柔らかい声。
「恥ずかしいから、あんまり見ないで…」
振り返ると若林さんが立っていた。髪を耳にかけ、本を胸の前で押さえる。フリルがあしらわれた緑色のワンピースを着ている若林さんは、まるで絵から飛び出してきたかのようなだった。
タケルは微笑み、確認するように言った。
「この絵、やっぱり若林さんなんだね。私服かわいい。」
若林さんはため息をつき、静かに説明する。
「父が趣味で絵を描くの…。ありがとう」
チラリとタケルとアスを見た後、視線を露葉に向ける。
タケルがそっと紹介する。
「こちらのお姉さんは、ウチの兄ちゃんの婚約者」
露葉は少し照れ、頭を下げる。
「はじめまして、小園露葉です」
肩のラインに沿って揺れる深緑の石の耳飾りが、光を柔らかく反射する。
若林さんはその光景をじっと見つめ、口元に微かな影を落とす。
タケルが声をかける。
「若林さん?」
顔を赤くした若林さんは小さな声で呟いた。
「わかばやし…いろです。凄く綺麗なひと…」
露葉は微笑み、目を少し細める。
タケルとアスは視線を交わし、くすくすと笑った。
「若と林は、何色?」
露葉は少し考え、静かに答える。
「みどり…」
二人の笑い声が、店内の柔らかな光に溶けていく。
タケルが小さく説明する。
「若林さんのお母さんが緑って名前で、お父さんが溺愛して“色”って付けたんだって」
露葉は静かに頷き、深く息を吸い
「素敵なご両親」と微笑みながら言った。
若林さんは露葉を相変わらず見つめたまま
「露葉さんって、人間じゃないみたい…凄く綺麗」と呟いた。
漆黒の髪が光を受けさらに深い黒になる。
耳飾りが静かに揺れ緑色の光を散らす。
細い首には緑色の光の粒が輝くステーションネックレスが彼女が動くたび煌めく。
露葉は視線を少し逸らしながらも、優しく目を細め若林さんを見つめた。
微かな沈黙の中、二人の距離と空気がゆっくり満ちていく。
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露葉の静かな美しさと、若林色の憧れに似た視線。
それを見守るタケルとアスの小さな笑い声。
まるで店内の柔らかな光に溶けていくように、恋や憧れは誰の心にもひっそりと灯り続けます。
言葉にできない思いが重なるとき、人は少し切なく、そして美しくなるのかもしれません。
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