第36話「しばられてるきもち」
自由ってなんだろう?
ぼくはよくわからないまま、「やらなきゃいけないこと」をやってる。
アスと話してたら、ぼくは、いつの間にか「なにかの奴隷」になってる気がしてきた。
それって、へん? それとも、ほんとう?
「なあ、タケル。ぼくたちって、しばられてない?」
放課後、帰り道の川べりで、アスが突然そう言った。
風がふわっとふいて、川の水面が小さく波立つ。
アスは、それを見ていた。
「……なんの話?」
「たとえば“こうしなきゃいけない”って思うとき。その“こう”って、ほんとうに正しい?」
「え? うん……でも、やらないと怒られるし」
「そう。怒られるのがこわいからやる。つまり“怒られたくない”の奴隷」
「……なんだそれ」
「でも、わりとみんな、そうじゃない?」
アスは足元の石を拾って、軽く投げた。
水面にぽちゃん、と落ちて、波紋が広がる。
「弟もさ」
アスがぽつりと言う。
「弟?」
「うん。まだ言葉にできないけど、弟も、きっとなにかにしばられてる。
“自分のルール”とか、“世界のきまり”とか。そうじゃないと、あんなに泣かない」
この前、季節の変わり目に、弟は夜中に突然目をさまして泣いたらしい。
アスが、ぼそっと話してくれた。
「きっと、世界が少し変わるのが、こわいんだと思う。いつもとちがう匂い、音、光。
そういうのが、“きもちいいルール”を壊すんだ」
「……じゃあ、弟も、なにかの“ルールの奴隷”?」
「うん。でも、たぶん、ぼくたちも」
ぼくは、それを聞いて、考えた。
たしかに、なにかしてもらったら、お返ししなきゃ、って思う。
怒られたくない、って思う。
誰かをがっかりさせたくない、って思う。
そういうの、たくさんある。
「じゃあ、自由ってなに?」
「それが問題だよね。やりたいことをやるのが自由?
でも、それって“やりたい”って思いが、すでにどこかから来てるかもしれない」
ぼくは、答えられなかった。
「仏教ではさ、“無我”って言うじゃん?」
「うん」
「“じぶん”がない、ってこと。でも、もしかしたら“自由なじぶん”なんて、もともとないのかも」
アスは、しゃがんで水を見ていた。
「川の流れみたいに、ぼくらもただ流れてる。上流で石が転がったら、下流の水がはねる。それだけ」
「……じゃあ、ぼくたち、ぜんぶ流されてるだけ?」
「かも。でも、それを知ったら、ちょっと自由になれる気がしない?」
なんだか、変なことを言ってるようで、すごく大事なことを言われた気がした。
アスは立ち上がって言った。
「やらなきゃ、じゃなくて、“いま、ここ”で何が起きてるか、見てればいいんだよ。
ほら、弟みたいに」
そのとき、アスのスマホに写真がうつっていた。
弟が、庭で水を見つめてる写真。
その目は、誰の奴隷でもなかった。
「自由」は、私たちにとって当たり前のようで、実はとてもむずかしい言葉です。
「何かのために」動いているとき、それは自分で選んでいるようでいて、何かに縛られているかもしれません。
でもそのことに気づくことが、最初の一歩かもしれない。
そう思いながら、タケルとアスは、今日も“観察”を続けています。




