第188話『①蜘蛛 生きると死ぬ』
日常の中でふとした仕草に、目に見えない価値の境界があらわれる。
助けられる命と、打ち払われる命。
その差はどこから生まれるのか――小さな出来事は、タケルの胸に静かな問いを落とした。
小テストの文字を追いながら、タケルの視線は自然と窓の方へと逸れていた。
白い紙ににじむ文字よりも、その隅からふわりと降りてきた細い糸の方に目を奪われる。
光を受けてきらめく一本の糸。その先に小さな蜘蛛がゆっくりと揺れていた。
タケルがぼんやりと見つめていると、先生がその視線に気づき、手を止めた。
「……ああ、蜘蛛か」
そう呟き、先生は蜘蛛をそっと両手で包み込む。
そして窓を開け、やわらかく外へと逃がした。
教室に小さな風が入り、糸が空にほどけるように消えた。
「さ、続けて」
何事もなかったように授業が再開される。
――蜘蛛を逃がした…
ただそれだけ
タケルはぼんやり先生を見つめ鉛筆を握り直した。
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昼休み。
先生に呼ばれ、タケルは職員室へ足を運んだ。
用件を話す先生の顔のまわりを、一匹のハエがしつこく飛び回っていた。
「まったく……」
先生は手で何度も払うが、ハエは粘るように机の前を旋回する。
タケルはその様子を黙って見ていた。
やがてハエが机に止まる。
――その瞬間。
先生は丸めたノートを振り下ろし、ぱちんと音を立てた。
「げっ……」
机に黒い跡がにじむ。
先生は顔をしかめながらティッシュでそれを包み、ゴミ箱へ。
さらにアルコールを吹きかけて机を拭き取り、何事もなかったかのように会話を続けた。
「はい、これを運んでくれるかな」
タケルは黙って荷物を受け取る。
蜘蛛は生かされ、ハエは殺される。
なぜ?
そこにある線引きは、どこから来るのだろう。
タケルの胸に、小さなざらつきが残った。
ひとつの仕草で、命は残され、あるいは絶たれる。
同じ「生きもの」であっても、人の心は選び、分け、線を引いてしまう。
その線が正しいのか、間違っているのかはわからない。
けれどタケルの胸に残ったざらつきは、やがて世界を見つめる小さな窓となっていくだろう。




