第186話〜前編『現実と夢、幻と雪』
冬の夜は、時間の流れさえ止めてしまったかのように静かだ。
白い雪が宙を漂い、足音も息も溶けていく中で、存在は問いかけ、そして答えを待つ。
その静けさのなかで、出会いはひそやかに、しかし確かに心を照らす。
その夜、タケルは気がつくと、寺の庭に立っていた。
白い息も感じられないほど、しんとした夜。
外灯が雪を照らし、一枚一枚がゆっくりと地に落ちるのではなく、宙をさまよっているようだった。
ふと。
雪明かりの中に、ひとりの影が立っていた。
青年だった。
どこかで会ったことがあるような気がするのに、思い出そうとすると霧がかかる。
ただ、その視線だけが確かにこちらを射抜いていた。
青年は静かに歩み寄ってくる。
竹林の方から、さらさらと葉の揺れる音がした。
けれど彼の足取りには、雪を踏む音さえない。
体重を持たない影のように、ただ近づいてくる。
「……冬なのに、また会えた」
その口元に、やわらかな笑みが浮かぶ。
タケルの唇が、意識より先に動いていた。
「……円」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥に火が灯るように、その存在がたしかになった。
円はうれしそうに目を細め、タケルのそばに腰を下ろす。
石段に降る雪を肩で受けながら、子どものように隣を覗きこんでくる。
「どうして、ぼくの前に現れるの?」
タケルは声を震わせながら問う。
「兄ちゃんの中にも、確かに円はいるのに。……なんで、キミがここに現れたの?」
円は答えず、左の手を雪に差し出した。
ひらひらと落ちてきたひとひらを掬いあげる。
けれど、すぐに溶けて消える。
「雪って……どうしてつかめないんだろうね」
円の声は淡く、夜の空気にほどけていく。
「冷たさは残るのに……」
その瞳が、消えた雪を追い、次にタケルを見た。
深く、覗き込むように。
「わからない」
タケルは、胸の奥から絞り出すように言った。
「雪のことも……キミが、ぼくの前に現れる理由も……」
円はほんの少し、目を伏せる。
その横顔に雪が舞い、白い線を描いた。
「……ごめんね、タケル」
微笑んでいるのに、どこか遠い声だった。
「キミを困らせたいわけじゃない」
タケルは思わず身を乗り出す。
「じゃあ、どうして?」
雪は降り続いている。
けれど、その問いに答える声は、まだ夜の底に沈んだままだった。
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雪はつかめず、声は遠くに消えていく。それでも、そこにあるものは確かだ。
存在の理由や答えはすぐには見えなくても、目の前の温もりと光は、静かに心に残る。
タケルと円が交わすひとときは、消えゆく雪のひらひらのように、柔らかく、そして永遠に胸に刻まれる。




