第185話『恋⑥ 新しい世界』
冬の空気に響く声は、時を超えて心に届く。
変わらないものと、変わるもの。そのあわいにある温もりは、小さな手のぬくもりや、一瞬の言葉の中に宿る。
冬の空気はまだ凛と冷たかった。本堂前の階段に座り、僕はシンの小さな手を握る。
兄が静かに口を開く。
「不易流行って、仏教的な考え方とも通じる部分があってね…」
アスは石段に腰を下ろし、遠くを見つめる。風が髪を揺らし、髪の隙間から夕日が差す。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり――」
言葉がゆっくりと空に広がる。僕は息をつき、シンの手をぎゅっと握る。シンは小さな指で僕の指をつつき返し、何かを確認するように見上げた。
アスは言葉を続ける。
「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす――」
僕は目を細め、階段の石の冷たさを感じる。冬の風が頬を撫で、遠くの木々がゆらゆら揺れる。言葉の意味はまだ全部わからないけれど、音のリズムや空気の揺れが、心に静かに響いた。
アスは少し間を置き、石を指でころころ転がす。
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし――」
僕は思わずシンの肩をぽんと叩く。シンは目をぱちりと瞬かせ、静かに笑った。
その笑いを見て、僕の胸の奥が温かくなる。言葉の意味はまだ全部じゃなくても、ちゃんと“伝わる”ものがある気がした。
アスは最後の一文を告げる。
「たけき者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ――」
僕は息を吸い込み、シンの手をぎゅっと握り直す。
「……どういう意味?」僕は小さな声でたずねた。
兄が微笑み、『面白いね』と呟き石段の端に座る僕たちを見下ろすように言う。
「簡単に言うとね、世界には変わるものも、変わらないものもある、ということ。たとえば、シンが今日、つゆはの名前を呼んだこと。それは変わった瞬間でもあり、同時に変わらない確かなものでもある」
アスは空を見つめ、僕の方にちらりと目をやる。
「変わらないものと、変わるもの、どっちも大事なことだから。…だから、不易流行。世界はいつも、新しい景色の中にある」
僕は少し笑い、シンの小さな手を握り返す。石段の冷たさと冬の空気はまだ冷たいけれど、胸には小さな灯が灯ったように温かかった。
シンは僕の膝の上で、指先をくすくすと動かしながら、もう一度つゆはの方を見ている。
僕はその後ろ姿を見つめ、静かに思った。
言葉にできることも、できないことも、全部が意味を持ってここにある――そんな気がした。
無常の響きは、すべてが移ろうことを告げながら、同時に確かなものの存在を示す。
言葉にできる瞬間も、できない想いも、どちらも大切に抱きしめながら、人は新しい景色の中を生きていく。
冬の冷たい石段の上に灯る小さな温もりは、そのことを静かに教えてくれる。
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