第183話『恋④ 露葉』
冬の午後、冷たい空気が肌に触れる瞬間、人の心は柔らかく揺れる。
言葉を交わすことの少ない子どもでも、確かな想いは小さな声や手のぬくもりに宿り、静かに世界を変えていく。
冬の空気が少し肌に刺さる。僕は緑のパーカーのフードを深くかぶり、ポケットに手を入れて、歩道と車道の境界をそっと踏みしめる。アスの弟、シンは僕たちの真似をしながら、よろよろと境界を進む。小さな手はアスの手をしっかり握っていて、その指の感覚から安心を確かめているみたいだ。
本堂の前に差しかかると、金木犀の香りが冬の冷たい空気に混じってふわりと漂った。僕の視線が自然と露葉さんに向く。紺色の薄いワンピースに身を包み、冬の寒ささえ意に介さないように、静かに立っている。兄が彼女にコートをかける。
その時、シンがアスの手をすり抜け、弾かれたように走り出した。
「つーは!つーは!」
小さな両手を広げ、露葉さんに向かって駆けていく。僕の心臓が少し跳ねた。普段、言葉を口にすることの少ないシンが、はっきりと名前を呼んだ。これ以上ないほどの意味を持つ瞬間。
露葉は驚き、すぐに膝を折ってシンを抱きしめる。冬の寒さを溶かすような、柔らかい温もりの笑みだった。
「つゆは……」
アスは呟く。シンが確かに言葉にしたその瞬間の重みを、胸に刻みながら。
「シン…名前、言えるようになったんだね」
僕の声には、驚きと安堵と、どこか切なさが混じっていた。アスの弟だという事実が、この瞬間の価値をさらに大きくしている。小さな体が、言葉の重みを運んできたのだ。
露葉はシンの頭をそっと撫で、笑った。
「呼んでくれてありがとう。凄く…うれしい」
その一言だけで、世界がほんの少しやわらかくなる。言葉になった瞬間の、確かな光。冬の空気に溶けて、柔らかく地面に落ちていくようだった。
僕は、アスとシンの手のぬくもりを感じながら、目の前の光景を静かに見つめた。変わらないものも、変わるものも、すべてがここにある。未来はまだ白い空気の中で揺れる灯りのように、柔らかく、確かにあった。
名前を呼ぶこと、手を握ること──その小さな行為が、未来の光を確かに照らす。
変わらないものと、変わるものの間で揺れながらも、心は柔らかく開き、温かな時間を刻む。
冬の空気に溶ける笑顔の中で、未来は静かに、しかし確かに灯り続ける。




