第179話『恋を知った時』
ぼくたちの目に見えている世界は、ほんとうにそこにあるんだろうか。
見ていないときも、木や空や友だちの姿はちゃんとあるのか。
あるいは、ぼくたちが「見た」とき、はじめて世界はかたちをつくるのかもしれない。
そんなふしぎなことを考えると、すこしこわくて、でもわくわくもする。
少し雪が積もった朝。
タケルはカフェの前に立っていた。
会いたい人がいる。その気持ちに背を押され、ドアの前で息を整える。
「タケルくん? おはよう」
振り返ると、兄の彼女・露葉がそこにいた。
白い息とともに、柔らかな笑みが広がる。
「おはよう。ぼく、お姉さんを待ってた。朝よくここにいるって聞いたから」
タケルの様子がおかしいことを察して、露葉は少し首をかしげる。
「寒いね。……暖かいもの飲もっか」
そう言って自然に微笑んだ。
――以前、アスと彼女と三人で訪れたカフェ。あの頃は夏で、光が眩しかった。
今は冬。店内には赤や金の飾りが揺れ、ストーブの熱気がほんのり漂っている。
露葉は前と同じ席に腰を下ろし、真っ白なコートを脱いだ。
ショートより長く、ボブより短い黒髪。光を吸い込む漆黒。
そして耳元で揺れるのは、太陽色をした涙型の耳飾り。
金木犀の香りがふわりと漂い、タケルの胸がどきりと高鳴る。
「一緒に来たのは夏だったよね? ……冬の新しいメニューが出てる」
露葉がメニューを開きながら言う。
「へえ、温かいスイーツがあるんだね。……なら、ぼくフォンダン・オ・ショコラにしよっかな」
照れくさそうに笑うタケルを見て、露葉はそっと微笑んで注文した。
「同じお店なのに、季節でメニューが変わるのって楽しいね」
彼女は遠くを見つめながら、静かに言葉を落とす。
「確かに。……わくわくする」
タケルが答えると、露葉は目を閉じ、店のざわめきを聞くようにしていた。
沈黙が、なぜか心地よい。
若林さんって兄ちゃんの彼女に似てる――。
アスがふいに口にした言葉を思い出し、タケルは露葉の横顔をそっと見つめた。
視線を合わせず、遠くを見て静かに笑う彼女。
光に包まれるようなその姿。
いつも漂う金木犀の香り。
――確かに似ている。でも彼女の方がもっと、祈りのように儚くて、美しい。
頬が熱くなり、俯いたとき、運ばれてきたフォンダン・オ・ショコラ。
ナイフを入れると、温かなチョコがとろりとあふれ出す。
「わぁ……おいしそう」
タケルの無邪気な声に、露葉はにこにことコーヒーを口にした。
「夏は冷たいチョコ、冬は温かいチョコ……変わるって、悪くないね」
彼女の言葉にタケルは頷き、口いっぱいに甘さを広げる。
――それでね、円がね……。
気づけば、兄のお寺での出来事を彼女に話していた。
露葉は黙って耳を傾け、やがて小さく口を開く。
「でも、その龍賢も龍賢なんじゃないかな。円という人も、龍賢の一部なんじゃないかな」
タケルは口についたチョコを手で拭いながら呟く。
「お姉さん……アスと同じこと言ってる」
露葉は一度だけタケルをまっすぐに見て、すぐに視線をそらしながら言った。
「私はね、どんな龍賢でも彼は彼だと思ってる。……そんな龍賢、円という彼もすべて含めて、龍賢を想ってる」
静かな声なのに、真っ直ぐに胸に届く。
ぼくにも、ほかの誰にも向けられない――兄への想い。
なぜだろう。胸がきゅっと痛む。
そしてタケルは気づいてしまった。
……彼女のことが、好きなんだ。と。
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見つめたから、そこにあらわれる。
気づいたから、たしかに存在する。
そのつながりの中で、ぼくたちも世界の一部になっている。
観測は、ただの「見ること」じゃなくて、世界と自分を結ぶ約束のようなものかもしれない。
だから、見えないものをこわがるより、まだ見ぬものを見つける楽しみにしていたい。




