第178話『入れ物⑩ 一部』
ぼくたちが「見る」ことで、なにもなかったはずのものが姿をあらわす。
もし、この世界も「だれかに観測されている」から存在しているのだとしたら……。
そんなふしぎな気持ちから、このお話ははじまります。
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バス停に向かう道、雨は音をひそめるように雪へと変わっていった。
街灯に照らされ、白い粒が静かに舞い落ちる。
兄に「車で送ろうか」と言われたが、タケルは首を振った。
「交通費に」と差し出されたお金を、指先に感じながら歩いていた。
胸の奥に温かさと、言葉にならないざわめきが残っている。
傘の下、しばらく黙って歩いたあと、タケルが口を開いた。
「ねぇアス。兄ちゃんを観測してるって……どういう意味? 本堂で、兄ちゃんとアスが話してた」
足音がしんしんと雪に吸い込まれていく。
タケルは立ち止まり、うつむきながらつぶやいた。
「なんか……兄ちゃんが兄ちゃんじゃなくなっていくみたいで。ぼく、怖くて寂しい」
アスは返事をせず、傘をクルクルと回す。
舞い降りた雪片が光を帯びて、小さな円を描くように散っていった。
「タケルの知ってる兄ちゃんって、どんな人?」
アスの問いかけに、タケルは顔を上げた。
「え?」
言葉を探し、胸の中に浮かぶ像をひとつずつ手繰り寄せる。
優しくて、真っ直ぐで、ずっと追いかけてきた。
憧れて、寄りかかってきた――なりたいけどなれない…そんな存在。
アスはその横顔を静かに見つめる。
「兄ちゃんは兄ちゃん。今、違うって感じる兄ちゃんも……また兄ちゃんの一部なんだと思う」
タケルは唇を噛み、声を震わせた。
「でも……アスは兄ちゃんを円って呼んでた」
アスは一拍置き、落ち着いた声で返す。
「それも兄ちゃんの一部」
「でも……へんだよ…」
そこで言葉が途切れる。
タケルの胸の中で、兄の姿が二重写しになり、確かな像を結ばない。
アスは雪に目を向け、低く告げる。
「タケル、円を観測したのは、ぼくじゃない。きみだよ」
「え?なんで? ぼくが?」
その問いかけにも、アスは答えなかった。
ただ、雲の切れ間から降りてくる雪を仰ぎ見ていた。
白い静けさが二人を包み込み、言葉の余韻だけが、ゆっくりと降り積もっていった。
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見ていないときも、世界はほんとうにそこにあるのだろうか。
それとも、ぼくらが「見る」からこそ、色も、形も、生まれてくるのだろうか。
ふとした影のゆらぎが、そんなことを考えさせてくれるのです。
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