第177話『入れ物⑨ 縁起の眼』
だれも見ていないとき、ぼくはほんとうにここにいるのだろうか。
ふしぎな考えにとらわれることがある。
でも、だれかに声をかけられたり、ふと目が合ったりすると、たしかに「ここにいる」って感じるんだ。
観測されることで、ぼくという存在が浮かびあがってくる。
宇宙のなぞと同じように、人の存在も「見られること」とつながっているのかもしれない。
雨に濡れた足元をタケルは手で払った。
湿った風がまだ廊下に残り、障子越しに灯のような声が聞こえてくる。
部屋から洩れるのは、兄とアスの笑い声。
低く穏やかな兄の声と、軽くくすんだアスの声が交じり合っていた。
ふと、アスの真っ直ぐな声が響く。
「縁起の眼で世界をみたい」
間をおいて、兄が応じる。
「そう思う事ができてる時点で、もう何かを見ているんじゃないかな」
兄の声は淡々としているのに、部屋の空気を満たすように広がってゆく。
「これがある時、それがある。
これが生じる時、それが生じる。
これが無い時、それが無い。
これが滅する時、それが滅する。
――意味はわかるよね?」
アスは障子の光を受けながら、ゆるやかに頷いた。
「すべてのものは単独で存在してるんじゃない。必ず“間”のつながりの中で成り立っている」
兄は視線を落とし、吐息のように言葉を続ける。
「うん。花は土、水、光、空気、時間――その“間”があって咲く。
俺たち人も、親や仲間、環境や出会いという“間”によって生まれ、生きている」
わずかに息が長く続いた。
兄の声は呼吸とともに静かに揺れ、灯火のように余韻を残す。
「“アスがアスとしてある”んじゃなくて、すべてのつながりや余韻の中に、アスという像が浮かび上がる」
アスの瞳が細められ、淡い微笑がこぼれる。
「そうだね。存在は孤立した固まりじゃない。静かな水面に広がる波紋のように見えてくる」
そして、少し間を置いてから、兄を見つめた。
「……円。キミはその世界から見てた?」
その時だった。
障子の向こうで息を殺していたタケルが、思わず扉を開ける。
部屋の奥、壁にもたれかかって座る兄が顔を上げ、ふわりと笑った。
「おかえり、タケル」
その笑顔は確かに兄のものなのに、同時に兄でない何かが滲んでいた。
胸の奥が揺れて、タケルは泣き出しそうになりながらアスを見た。
アスはその揺らぎを受け止めるように、まっすぐ視線を返す。
「兄ちゃん。ぼくたち、そろそろ帰るよ」
立ち上がるアスの気配が、雨の匂いとともに部屋に余白を残した。
「観測してはじめて存在が決まる」という考えかたは、むずかしい物理の世界にもあるらしい。けれどそれは、ぼくらの日常のなかにも、ひそかにひそんでいる。友だちと出会って、見て、声を聞いて、はじめて生まれる気持ち。
誰かに気づかれたことで、たしかにここに生きていると感じられる瞬間。見られることは、こわさでもあり、安心でもある。ぼくらはみんな、観測されることで形を持つ――そんな不思議な世界を歩いているのだ。
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