表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
310/450

第177話『入れ物⑨ 縁起の眼』

だれも見ていないとき、ぼくはほんとうにここにいるのだろうか。

ふしぎな考えにとらわれることがある。

でも、だれかに声をかけられたり、ふと目が合ったりすると、たしかに「ここにいる」って感じるんだ。

観測されることで、ぼくという存在が浮かびあがってくる。

宇宙のなぞと同じように、人の存在も「見られること」とつながっているのかもしれない。



雨に濡れた足元をタケルは手で払った。

湿った風がまだ廊下に残り、障子越しに灯のような声が聞こえてくる。


部屋から洩れるのは、兄とアスの笑い声。

低く穏やかな兄の声と、軽くくすんだアスの声が交じり合っていた。


ふと、アスの真っ直ぐな声が響く。

「縁起の眼で世界をみたい」


間をおいて、兄が応じる。

「そう思う事ができてる時点で、もう何かを見ているんじゃないかな」


兄の声は淡々としているのに、部屋の空気を満たすように広がってゆく。

「これがある時、それがある。

これが生じる時、それが生じる。

これが無い時、それが無い。

これが滅する時、それが滅する。

――意味はわかるよね?」


アスは障子の光を受けながら、ゆるやかに頷いた。

「すべてのものは単独で存在してるんじゃない。必ず“間”のつながりの中で成り立っている」


兄は視線を落とし、吐息のように言葉を続ける。

「うん。花は土、水、光、空気、時間――その“間”があって咲く。

俺たち人も、親や仲間、環境や出会いという“間”によって生まれ、生きている」


わずかに息が長く続いた。

兄の声は呼吸とともに静かに揺れ、灯火のように余韻を残す。

「“アスがアスとしてある”んじゃなくて、すべてのつながりや余韻の中に、アスという像が浮かび上がる」


アスの瞳が細められ、淡い微笑がこぼれる。

「そうだね。存在は孤立した固まりじゃない。静かな水面に広がる波紋のように見えてくる」


そして、少し間を置いてから、兄を見つめた。

「……円。キミはその世界から見てた?」


その時だった。

障子の向こうで息を殺していたタケルが、思わず扉を開ける。


部屋の奥、壁にもたれかかって座る兄が顔を上げ、ふわりと笑った。

「おかえり、タケル」


その笑顔は確かに兄のものなのに、同時に兄でない何かが滲んでいた。

胸の奥が揺れて、タケルは泣き出しそうになりながらアスを見た。


アスはその揺らぎを受け止めるように、まっすぐ視線を返す。

「兄ちゃん。ぼくたち、そろそろ帰るよ」


立ち上がるアスの気配が、雨の匂いとともに部屋に余白を残した。



「観測してはじめて存在が決まる」という考えかたは、むずかしい物理の世界にもあるらしい。けれどそれは、ぼくらの日常のなかにも、ひそかにひそんでいる。友だちと出会って、見て、声を聞いて、はじめて生まれる気持ち。

誰かに気づかれたことで、たしかにここに生きていると感じられる瞬間。見られることは、こわさでもあり、安心でもある。ぼくらはみんな、観測されることで形を持つ――そんな不思議な世界を歩いているのだ。



---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ