第175話『入れ物⑦ 心地よさ』
ひとつの影を見つめることから、世界はひろがっていく。
その影が何を映しているのか――誰もすぐには答えられない。
ただ、立ち止まり、耳を澄まし、黙ってそこに居ることで、
言葉にならないものが、少しずつ輪郭をあらわしてくる。
影と光。沈黙と声。
そのあわいにある「間」は、円のように、ゆるやかにひとを包む。
畳に落ちる光がゆっくり揺れ、香炉の香りが静かに空気を満たす。柱に手を当てたアスは、目を細めて光と影の揺らぎを見つめている。声には出さない。呼吸だけで、その場の空気の濃さを受け取っているようだった。
タケルは小さく身を乗り出し、畳の縁を指でなぞる。
「なんか…ここ…さっきから思ってたけど変な感じ」
アスは口元だけ微かに緩め、静かに頷く。
その視線が兄に向くと、目と目の間に、直接語らずとも何かが通う。円の輪のような、微かな気配。
若林さんは息を吸い込み、目を閉じる。微かに眉が動き、時の重みを感じているのだろうとわかる。
兄は静かに座ったまま、目をそらさず、二人の様子を見つめる。光と影の揺らぎ、香りの残像、呼吸の間──それらが円の輪郭を描き、アスはそれをじっと見つめている。問うことも、言葉にすることもない。ただ察し、受け止める。
タケルがぽつりと声を漏らす。
「ぼくにはよくわかんないけど…でも、なんか心地いい」
アスは微かに笑い、目だけで答える。
若林さんも軽くうなずいた。
兄はその光景を静かに見つめる。円の特別な残像が、ここにあることを確かに感じながら──ただ、それを言葉にする必要はないのだと、呼吸の間に身を任せていた。
影を見た子どもたちは、まだ答えを持っていない。
けれど、その「わからなさ」を抱えたまま進むことは、
じつはとても前向きなことだ。
人は答えを急がず、ただ感じとることができる。
そこに広がる静けさは、やがて「円」となって、
次の気づきへの扉をひらいていくのかもしれない。




