第174話『入れ物⑥見ている者』
冬の朝の寺は、静けさの中にかすかな呼吸を秘めている。
畳の匂い、障子を透ける光、そして影の長さ。
それらは、言葉よりも深いところで、人の心を揺らす。
木の扉をそっと閉めると、畳の上に残る微かな香炉の香りが、俺の胸にゆっくり広がる。
光は障子越しにやわらかく差し込み、三人の影を長く伸ばしていた。
若林さんが静かに問いかける。
「なんで影って、本当に消えるのかな」
アスは柱の陰を見つめ、口元だけ微かに緩めて言う。
「消える、というのは見えないだけかもしれない」
タケルが目を丸くして割り込む。
「じゃあ、消えてないの?」
アスは淡々と続ける。
「見えなければ、ぼくにはない。だとしたら、消えた?」
若林さんは小さく微笑む。
「じゃあ、存在って…」
アスは肩を少し動かして、ゆっくり答える。
「観測してなければ、ないのと同じ。でも、ぼく自身がぼくを観測してたら、あるになる」
タケルは眉をひそめ、声を潜めて言った。
「なら、ぼくがぼくを見なくなったら消えるの?」
アスは口元だけに微かな笑みを残して答える。
「キミじゃないキミが見てる」
若林さんは少し息を飲み、静かに笑った。
「……アスくんって少しこわい。でも、嫌いじゃない」
アスは肩の力を抜き、軽くうなずく。
「ありがとう。嬉しいよ」
タケルは頭をかきながら、苦笑いを零す。
「いやいや、凄くこわいよ」
そのやり取りを、俺はそっと見つめていた。
アスの瞳が、何かをすくい上げるように光っている。
きっとアスは気づいているの。
俺の中の円――あの特別な存在の残像を、アスは静かに呼び出そうとしている。
畳に落ちる光と、三人の静かな呼吸だけが、本堂の中にゆっくり漂っていた。
影は消えるのか、残るのか。
その答えは誰にもわからないまま、光とともに揺れ続ける。
けれどアスの眼差しは、確かに何かを見透かしていた。
――今もここにあるものを。
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