第173話〜龍賢の視点『入れ物⑤繋がる』
寺の扉は、外と内の世界を分ける境界だ。
ひとたび足を踏み入れると、空気も時間も、別の流れに変わっていく。
その朝もまた、静けさの中で何かが待っていた。
木の取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を引いた。
外の冷たい空気が、ふっと背後に押し戻される。
代わりに、ほんのりと温もりを帯びた匂い──線香と古い畳、そして檜の香りが胸に流れ込んでくる。
中は薄暗い。
光は障子越しにやわらかく落ち、床の上に淡い長方形を描いている。
わずかな塵がその光を漂いながら昇降していた。
靴を脱ぎ、足を畳に置くと、外とは別の静けさが足裏から伝わる。
音は吸い取られ、歩くたびに微かな畳の軋みだけが耳に届いた。
若林さんは一歩中に入り、立ち止まった。
目がきらりと揺れる。
仏壇の金色の縁取りが、その瞳に小さく映り込んでいた。
タケルは興味なさそうに鼻を鳴らしながらも、きょろきょろと天井を見ている。
アスは黙って香炉の近くまで歩き、鼻先で香りを確かめるように深く息を吸い込んだ。
「…やっぱり落ち着く。この匂い」アスが呟く。
若林さんはゆっくりと正面の仏像に近づき、両手を合わせた。
その動作は子供らしさよりも、ずっと古い記憶に導かれた仕草のように見えた。
俺はふと、さっき柱に刻まれた「円」の文字を思い出す。
あれがここに繋がっているのか、それとも──ただの偶然なのか。
畳の匂いの中で、その答えだけが静かに沈んでいた。
線香の香りと畳の温もりに包まれながら、記憶と偶然が重なっていく。
柱に残された「円」という文字は、ただの落書きなのか、それとも呼びかけなのか。
答えは見つからないまま、静けさだけが本堂に漂っていた。




