第172話〜龍賢の視点『入れ物④ メッセージ』
冬の朝の光は、静けさを一層際立たせる。
境内に響く足音と白い息の中、古い木々や瓦は、長い時間を超えて何かを語ろうとしているようだった。
その日、ただの見学が、不意に過去へと触れる小さな扉になるとは思いもしなかった。
「それじゃあ、本堂から見学する?」 俺は若林さんの方を見やり、声をかけた。
「いいんですか?」 「もちろん」
ぱっと瞳が光り、若林さんは小さく頭を下げる。
冬の陽を受けて、その動きが白い息の向こうでやわらかく揺れた。
俺の家は寺の敷地の端にある古い離れ。
祖父は本堂と繋がる母屋に一人住んでるけど、今日は檀家の集まりで県外に出てる。
だから、この境内は少し広く、少し静かな気がする。
庭を抜ける。
霜を踏む足音が、白い砂利の上で小さく弾ける。
空気は冷たいのに、陽の粒が黒瓦の上で跳ねていた。
「お兄さん、このお寺はいつからあるんですか?」
若林さんが少し首を傾けて訊く。
「…記録では江戸の終わりごろ」
自分の声も、冬の空気に吸い込まれるようにゆっくりと出ていく。
「でも、この土地にはもっと前から祈りの場があったらしい」
「兄ちゃんの今住んでる家…」と、タケルが横で言った。
「ずっと前は、お父さんのお兄さんが住んでたんだって。ちょっと前に聞いた話だけど」
「その方も、どこかの住職?」
「ううん。若くして亡くなったって」
若林さんは短く「そう」と返す。
風が袖をめくるように通り過ぎた。
やがて、本堂が見えてきた。
石段は朝の光を受け、淡く白く輝いている。
若林さんは足を止め、見上げながら小さくつぶやいた。
「…向拝が美しい」
思わず笑ってしまう。
「それはよかった」
若林さんは柱に手を置き、目を閉じた。
その仕草は、言葉よりもずっと静かに、木の鼓動を聴いているように見えた。
「何してるの?」タケルの声。
答えはない。
アスが小さく笑い、「話してるんだね」と言った。
「そう。向拝柱が語るの」
若林さんの声は、木の肌に吸い込まれていく。
アスはさらに口角を上げ、「ぼくもよくする」と柱に手を当てた。
「タケル、最近の小学生って、みんなこんなか?」
「小学生代表はぼくみたいな感じ」
苦笑しながら、息が白く広がった。
そのとき、若林さんがふいに口を開いた。
「…エンって、なに?」
アーモンド型の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「エン…」
柱の低い位置を指で撫でながら、彼女は続けた。
「『円』って書いてある。…子供のイタズラみたいな字」
俺も屈んで覗き込む。
「本当だ。気づかなかった」
「円がお父さんのお兄さん」タケルがぽつりと。
アスが続ける。
「メッセージみたいだね、誰かに」
若林さんは小さく頷いた。
「…うん」
石段の冷たさと、柱に残る木の温もり。
その間に刻まれた「円」という文字が、ただの落書きではなく、呼びかけのように見えてくる。
指先に残る木の温もりと、石段の冷たさ。
そこに刻まれた「円」という文字は、落書きのようでいて、確かな呼び声のようだった。
――今も、ここにいる。
そう語りかけるように、境内の静けさが胸に沁みていった。
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