第170話…龍賢の視点『入れ物② 特別な存在』
朝の光は、障子を通してゆらりと揺れ、部屋の空気をやわらかく満たす。
しかし、その静けさの中に、ほんの少しのざわめきが忍び込む。
問いかけるような瞳と、確信めいた言葉──小さな存在の視線が、今日も世界の輪郭を揺らす。
「……お前、何を言ってる?」
アスは湯呑を軽く揺らし、澄ました顔で言った。
「兄ちゃんにそっくりな人。……エン? まどか? まぁどっちでもいいけど。」
龍賢は瞬きをひとつして、湯呑を持ち直す。
「父さんの兄。俺じゃない」
アスは鼻で小さく笑い、「ふ〜ん」とだけ返す。その声音に、追及でも疑いでもなく、ただ静かな興味だけが滲んでいた。
湯気が薄くなる頃、アスがぽつりと言った。
「でも…兄ちゃんって最近雰囲気変わったね。だから、誰なのかなって」
龍賢は答えようとしたが、喉の奥に言葉が引っかかった。出てくるはずの音が形を成さず、静けさだけが部屋を満たす。
アスは龍賢の横顔を見つめ、目を細めた。
「円って…特別な存在だったみたいだね。慈愛に満ちた人──ぼくも会ってみたいな」
障子の外で、風が竹を揺らす音がした。その音が、遠い記憶を軽く叩くように響く。
「ずっと昔に亡くなってる」
「知ってる」
「でも生きてる」
「は?」
アスがクスクス笑う。
「アス…お前、俺をからかうために朝早く来たのか?」
この問いには答えない。アスはじっと龍賢を見つめる。
「生きてる」──龍賢を指差した。
「兄ちゃんは円の入れもの」
その時、遠くでチャイムが鳴る。
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湯気の向こう、竹のざわめき、そして小さな声。
言葉にできない感覚が、静かに重なり合い、時間の隙間に残る。
――特別な存在と呼ばれたものの残響は、こうしてまだ、誰かの胸の中で生きている。




