第169話…龍賢の視点『入れ物① 離人感』
休みの日の朝は、いつもより静かだ。
家の空気が眠りをまだ抱えたまま、薄い光に染まる。
そんな時間に、小さな問いが、ふと戸口からやってくる。
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休みの日の朝
玄関のチャイムが、まだ眠りの残る家の空気を震わせた。
龍賢はゆっくり扉を開ける。
冷たい朝の光の中、アスが立っていた。
首までファスナーを上げたコートのポケットに、両手を突っ込み、横を向いたまま白い息を吐いている。
「アス、こんな早くにどうした?」
「待ち合わせがここ」
龍賢は小さく笑う。
「いつの間にか、うちが待ち合わせ場所になってるな」
「どうぞ、入って」
アスは靴を揃えて上がると、畳に腰を下ろし、ぽつりと言った。
「今日、寒いね」
「待ち合わせって、タケルだろ?」
「…うん。今日、兄ちゃんが月参り休みだからって…タケルが」
「休みだけど…まあいいか」
龍賢は急須に湯を注ぎながら、小さく笑った。
アスは湯気を見つめたまま、ふと切り込む。
「兄ちゃんってさ、自分が自分じゃないって思うこと、ない?」
少し間を置き、低く──「離人感」
龍賢は湯呑を置き、目を細める。
「小学生が、離人感って…」
真剣な視線に押されるように、龍賢は口を開いた。
「……あるよ」
湯気がふわりと揺れる。
「でも、それは珍しいことじゃない」
「人は仏の心を宿してるっていうけど、それは“無我”の心でもある」
「“私”っていう形は、ただの仮の入れ物。
ときどき、その感触が抜けてしまう瞬間がある」
アスの指先が湯呑の縁をなぞる。
窓の外では、風が木の枝を揺らしていた。
「自分が自分じゃない、というより──
世界だけがそこにあって、俺がそこに属してない感覚」
龍賢は小さく息を吐く。
「それを怖いと思う人もいるけど、俺はわりと好きだな」
「……仮の入れ物、か」
アスは呟き、龍賢を見つめ、少し微笑んだ。
「ねぇ…じゃあ兄ちゃんは、今どっち?」
「何が?」
「円……」
暖かい部屋の中が、不意にひやりと冷たく感じた。
その声は、俺の中の何かに触れてくる──。
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湯気の揺れる茶の香りと、窓の外の風のざわめき。
朝の静けさに交わるのは、言葉にできない心の感覚だけ。
――目に見えないものが、こうして確かに在ることを教えてくれる朝。
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