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第167話『心地よさ』

このお話は、ぼくとアスがふだんの暮らしのなかでふと立ち止まり、

「時間って、ほんとうは何なんだろう?」と考えた日の記録です。

時計やカレンダーで測れる時間と、心のなかで流れる時間――

そのふたつのあいだには、すき間のような不思議な場所がありました。

そこに足を踏み入れたとき、ぼくたちは少しだけ世界の見え方が変わったのです。



---

昼下がりの教室。

窓辺からこぼれる陽射しが、若林さんの髪をやわらかく染めていた。

光を含んだ茶色が、動くたびにふわりと揺れ、空気の中にほどけていくようだ。


真剣な表情で教科書を見ている――そう思ったら、その影に小さな文庫本が隠れていた。

唇が、言葉にならない声を紡ぐようにかすかに動いている。


「若林!」

先生の声に、肩が小さく震えた。ゆっくりと立ち上がる彼女。やはり、答えられない。

(…やっぱり授業中も本を読んでるから)

タケルは思わず口元をゆるめ、小さく笑った。


その笑い声に、隣の席のみなみが首を傾ける。

「なんで笑ってるの?」

「ちょっと」

「ふ〜ん。…ねぇタケル、今日みんなで放課後遊ばない?」

「ごめん、今日は…」

視線はつい時計の針へ。あと少しでチャイムが鳴る。


「なんかタケル変わったね…アスくんが来てからかな?ノリ悪くなった」

タケルは教科書を閉じながら、「そんなことないよ」とだけ答えた。

「でも全然来ないじゃん」


チャイムの音と同時に、若林さんが席を立つ。その背を目で追うタケル。

「聞いてる?」

「聞いてるよ。本当に。…今度必ず遊ぶから」

「いつ?」

「明日」

「本当に?」

「うん」

みなみは目を細めて笑った。

タケルは立ち上がり、「ちょっと用事あるから」と言って教室を出る。



---


放課後の図書室は、音が吸い込まれたみたいに静かだった。

若林さんは窓辺の席に座り、手元の本に視線を落としている。

近づくと、彼女は髪を耳にかけ、軽く椅子を叩いた。

「タケルくん、どうぞ」


座ると、距離が思ったより近い。心臓の音がうるさい。


「この本が面白くて、今日はずっと読んでる」

「授業中も?」

「…なんで知ってるの?」

「丸見えだったよ」

笑うタケルを、若林さんがじっと見つめる。


「なに?」ぼくが聞くと若林さんが淡々と言った。

「タケルくんのこと、私苦手だった」

「え、なんで?」

「関わりたくないタイプ」

「…それ、けっこうひどいよ」

彼女はクスクスと笑った。


「でも」

「でも?」

返事はなく、ページがまためくられる。


やがて、声が少しだけ柔らかくなる。


「別るれど嬉しくもあるか 今夜より逢ひ見ぬ前になにを恋ひまし」


「…なに?」

若林さんはゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。

「また明日ね」

本を閉じ、足音も静かに去っていった。



---


次の日の放課後。

みなみに連れられ、街角の公園にいた。夕陽が低くなり、笑い声があちこちから響く。

友達たちは新しい歌やドラマ、次々と変わる話題で盛り上がっていた。


タケルは、その輪の中で若林さんを思い出していた。

多くを語らないのに、なぜか安心できる人。

光に透ける髪。好きなことを話すときの、まっすぐな瞳。

今、目の前にある会話はめまぐるしく切り替わり、ついていくほどに息が詰まる。


「ごめん、帰るね」



---


夕暮れの図書室。

薄暗い窓辺に若林さんの姿があった。

タケルは隣に腰を下ろし、少し息を整えてから言った。

「ぼくも同じだから」

「え?」

「昨日の和歌」

若林さんは何も言わず、ただ目を細めて笑った。


---


時間は、目に見えないのに、ぼくたちの暮らしを形づくる土台のようなものです。

けれども、あの日アスと話していて気づいたのは、

「時間はただ流れているだけじゃなく、ぼくたちが“感じる”ことで姿を変える」ということ。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、悲しい時間はゆっくりと重く流れる――

それはもしかしたら、時間そのものよりも、

ぼくたちの心がつくり出している“もうひとつの時間”なのかもしれません。



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