第33話「きせつのかわりめのひみつ」
ある夜、アスの家に泊まったぼくは、ふしぎな静けさに気づいた。
言葉にできないものが、この世界にはたしかにある。
それを知っているのは、弟かもしれない。
アスの家の部屋は、雨上がりの匂いがしていた。
窓のカーテンが、すこしだけ風にゆれていた。
ぼくとアスは並んで布団に入っていたけど、まだ眠れないでいた。
「タケル」
アスの声は、いつもみたいに突然だった。
「夜の空、見たことある?」
「あるよ、なんども。」
「ちがう。……ほんとの夜の空。」
ぼくは少し起き上がって、カーテンのすき間から外を見た。
雲の切れ間から、月の光がこぼれて、遠くの屋根がぼんやり光っていた。
「あ、あれ、なんか、光ってる」
「雨粒に月の光が当たってるんだ。弟が言ってた」
「弟が?」
アスは小さくうなずいた。
「“空が光ってる。なにかが、降りてきてる”って。……あの子、言葉で説明するの、むずかしいんだ。感情がそのまま、からだの動きになるみたいな感じ」
ぼくは思い出した。
支援施設で出会った、アスの弟。
言葉は少なかったけど、何かをじっと見つめたり、水を手ですくって光に透かしていたりした。
カーテンの影に目をこらして、音もなく立っていた。
「……弟がひとことだけ、言ったことがある。“ここちがうそこちがう”って。」
アスはぽつりとつぶやいた。
「どこが“ここ”で、どこが“そこ”なのか、ぼくにはわからなかった。でも、今なら少しだけ……」
そのとき、風が吹いた。
カーテンがふわっと大きく揺れて、まるで見えない何かが部屋に入ってきたみたいだった。
弟ならきっと、この風に何かを感じとっているかもしれない、と思った。
「タケル、きせつって、名前ついてるけど……本当は、毎日ちがうんだよね」
「え?」
「春とか夏とか、そういうのじゃなくて。弟が感じてる“かわりめ”って、たぶん、もっとちいさくて、おおきいことなんだと思う」
ぼくは黙ってうなずいた。
月の光は雲にかくれて、部屋はまた暗くなった。
アスが最後に言った。
「言葉にならないものって、ほんとうはたくさんある。でも、言葉にならないからって、ないことにはならないんだよね」
言葉にできない感情や風景――それは、ないことになってしまいがちです。
けれど、見えないもの、言えないものも、たしかに感じている人がいます。
アスの弟は、そのことを静かに教えてくれる存在かもしれません。




