第158話『悩⑥祈りの意味を』
祈りは言葉だけじゃない。
目に見えなくても、声がなくても、そっと心の中で紡がれる想い。
子どもたちのやわらかな瞳には、まだ見えないけれど、確かな何かが映っている。
今日はそんな、小さな祈りの話。
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ストーブのやわらかな熱が部屋に満ちていた。
タケルとアスは並んで座り、兄は少し離れた位置から湯気の立つカップを三つ、低いテーブルに置いた。
アスがふと口を開く。
「ロベルト・フェッルッツィの『マドンナ・デル・グラッパ』って知ってる?」
兄は湯呑みを手に取りながら、思わず笑った。
「また小学生離れなことを言うな」
「なにそれ? 食べ物の名前? イタリアっぽい」
タケルは首をかしげる。
「タケルは小学生らしくていいな」
「はぁ? なんか嫌な言い方〜」
兄は微笑みながら説明した。
「マドンナ・デル・グラッパは、一作だけで有名になった画家の作品だ。祈りみたいな絵なんだよ」
「うん、そう」
アスはポケットからスマホを取り出し、指先で何度か画面をなぞる。
やがて見つけた画像をタケルの前に差し出した。
「わぁ…写真みたいに綺麗な絵。確かに祈ってるみたい」
タケルは画面に見入る。
兄も身を乗り出して覗き込み、静かに言葉を添える。
「聖母マリア像として描かれたわけじゃなかったけど、結果的に聖母マリア像として人気になったんだ」
「そう。この絵、弟が好きなんだ」
アスの声は、少しやわらかくなった。
「青も好きだから、この少女の纏う青い衣服も気に入ってるみたい」
「確かに、シンってリベラが好きだもんね。最近聴いてるアニマ・クリスティなんか特に祈りっぽい」
タケルが思い出すように言うと、アスは小さく頷いて言った。
「祈りって…なんだろうね?」
アスの声は、カップの中で揺れる紅茶の湯気に溶けるように静かだった。
タケルは、少し考えてから口を開く。
「祈り? 願いとどう違うの?」
兄は微笑み、湯呑みを手の中で回しながら言った。
「似てるけど…祈りは、叶うかどうかよりも、その人を奥で見守るためのものかもしれない」
「奥で見守る…?」
タケルは、兄の顔をじっと見て繰り返す。
その言葉は少し難しかったけれど、不思議と嫌じゃなかった。
アスは湯気越しに視線を遠くへ漂わせた。
「見えなくても、聞こえなくても、話せなくても…祈ることはできるもんね」
「そうだな」
兄は頷く。
「祈りは言葉よりも深いところにあるから」
アスはスマホを机に置き、両手をカップに添えたまま、小さく息をついた。
「この絵の少女も、何かを信じてる顔をしてる。…誰に届くか分からないのに」
タケルは不意に笑った。
「それって、雪だるま作っても、すぐ溶けちゃうのに作るみたいだね」
兄は少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと頷く。
「…そうかもしれないな。無駄に見えることでも、人はやめられない。それが祈りなのかも」
アスはその言葉に、ほんの一瞬、何かを抱きしめるように目を閉じた。
その横顔は、暖かな部屋の中でさえ、どこか冬の空気を纏っているようだった。
タケルはふと、さっき見た絵を思い出し、口を開いた。
「ねぇ、さっきの絵さ…なんだかアスのお母さんに似てない?雰囲気とか、顔の感じとか。」
アスは目を細めて静かに微笑んだ。何も答えず、ただそのまま笑みを浮かべていた。
その静かな間に、タケルは急に言ってしまったことを後悔し始めていた。
「言わなきゃよかったかな…」心の中でそう思う。
アスの母は若くしてアスを産み、この少女のように、日々祈るように過ごしていたのかもしれない。届くことのない祈りを捧げていたのかもしれない。
薄暗くなった部屋の中で、タケルの胸の奥にそっと灯がともった。
その灯は小さく、でも確かに彼の心を温めていた。
祈りとは何か、彼はその意味を少しだけ感じた気がした。
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絵に映る少女の姿と、アスの母の面影。
祈りは時を超え、静かに心をつなぐ。
祈りのかたちは違っても、その根っこは同じ場所にあるのかもしれない。
目には見えないけれど、確かに感じる――それが祈りの力なのだろう。
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