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第32話「ことばになるまえのせかい」

ことばを知る前の世界って、どんなふうだったんだろう。

雨のにおい、風の音、水の冷たさ——。

名前をつけられる前の、あの瞬間。

アスの弟を通して、タケルはふとそんな世界をのぞきこみます。

雨が、やんだばかりだった。


地面には水たまりがのこっていて、空はまだ少し灰色をひきずっている。

学校の帰り道、タケルとアスは、お寺の境内の外れで立ち止まった。


「こっちだよ」


アスが先に歩いていく。その後ろを、ゆっくりと弟がついていく。


アスの弟。まだ5歳。

弟は、お寺の中にはまだこわがって入れないけれど、今日は外の空間をすんなり受け入れてくれた。


——ほんとはね。タケルの写真と、お寺の写真をカードにして見せておいたんだ。


アスが教えてくれた。

「これから行くところ」や「一緒に行く人」を、前もって視覚で伝える。

それだけで、弟の不安はぐっと減るらしい。


弟は水たまりのそばでしゃがみこむと、小さな手で水をすくって見つめている。

それから、ゆっくりと指を開いた。

水は流れ落ち、ひとしずく、ふたしずく、地面に吸いこまれていく。


何度も、何度も、それをくり返す。


タケルはその姿を見て、ふと、前にもどこかで同じような光景を見た気がした。

——そうだ。

あの支援施設の庭で。あのときも弟は、水と遊んでいた。


けれど、それは「遊び」という感じではなかった。

弟は、そこにある「何か」に、ただ向き合っていた。

まるで、そこに写る世界と、同じ高さに立っているみたいに。


「なあ、タケル」


アスがぽつんとつぶやいた。


「弟ってさ、ぼくらよりもずっと、世界の“いちばんはじめの姿”を知ってる気がする」


タケルは、足もとにある小さな水たまりをのぞきこんだ。


「いちばんはじめ……って?」


「たとえばさ。風が“風”って呼ばれる前の風とか。

水が“水”になる前の冷たさとかさ。

意味とか名前とかが、まだついてないころの、ぜんぶ。

そこに、弟はちゃんと立ってる気がするんだよ」


そう言って、アスは空を見あげた。

そこには、雨上がりの空にすこしだけ光が差しこみはじめていた。

雲のあいだから、薄明光線が地面へまっすぐ伸びている。


「……タケルは、そこ、こわくない?」


「どこ?」


「名前がまだついてない世界。

“わたし”とか“あなた”とか“ここ”とか“いま”とか、

ぜんぶ、まだことばになるまえのせかい」


タケルはこたえなかった。

けれど、なんとなくアスの気持ちがわかった気がした。


弟は、そんな場所から、ときどき、タケルたちの世界に来る。

でもきっと、タケルたちもまた、ときどき——

あちらの世界に呼ばれている。


知らず知らずのうちに。

「名前のないもの」と向きあうことは、ときに私たちの中の静けさを思い出させてくれます。

弟の世界は、ことばにするにはまだ早すぎて、でも、たしかに“ある”のです。


仏教では「名相みょうそうを離れた真理」という言葉もあります。

意味や言葉でとらえる前の「ありのまま」。

この物語も、そんな感覚に、少しでも近づけたなら嬉しいです。

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