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31話「うつる せかい」

季節の変わり目には、感覚が少しだけ開かれることがあります。

今回の物語は、自閉症スペクトラムの弟とタケルの過去の出会いを通して、「見ること」と「うつる世界」、そして壊れてしまわないために私たちが日々行っている「予告」のような行為を見つめたお話です。

「あれ……タケル?」


アスの声が聞こえた。

ぼくは、お寺の廊下に腰を下ろしていた。誰もいない本堂の裏、風が白いのれんをふわりとゆらす。


「さっき、ひさしぶりに支援施設のほう行ったんだ」

アスが唐突に言う。


「あ、弟……?」

ぼくがそう聞くと、アスはうなずいた。


「あいかわらず、水を手ですくってじーっと見てる。ほら、前にタケルも見たろ?」


そうだ、あの時。

春だったか秋だったか、季節の変わり目で風のにおいが変わった日だった。

支援施設の庭で、ぼくはアスの弟と出会った。


彼は水道のそばにいて、手のひらを器にして水をすくい、また流し、すくい、またこぼす。

何度もくり返して、まるで見えないものを手のひらで受け止めようとしているみたいだった。


「世界がこぼれないように、してるみたいだったな……」


ぼくがそう言うと、アスは少し笑った。


「おれたちが“見る”っていうのは、ほんとうに見ることなのかな。弟を見てるとさ、“水”を見てるんじゃなくて、“水を通した世界”を見てる気がするんだ」


ぼくはその言葉に、少し身震いがした。

ふいに、遠くから読経の声が聞こえてくる。

法事で、父と兄がとなえている声。何百年も変わらない音。


「そういえば、お寺の外には弟くん、入れたんだよね?」

ぼくが聞くと、アスはポケットから数枚のカードを取り出した。


「これ。写真カード。お寺の外観と、タケルの写真と、本堂の中。あらかじめ順番に見せたら、少し安心したみたい」


「ちゃんと“予告”したんだね」


「うん、突然だと、世界が崩れるからさ。弟の中では。意味とか理由じゃなく、ただ“壊れる”」


ぼくはその言葉に、ハッとした。

もしかしたら、ぼくらも同じかもしれない。


違うのは、それを“平気なふり”で乗りこなしているだけかもしれない。


アスが続ける。


「ねえタケル。仏教では“世界はうつるもの”っていうだろ。弟の手の中で水が光るのも、ぼくらの目に映る世界も、うつるだけで、何もとどまらない」


ぼくは静かにうなずいた。


それでも、ぼくの中には、あの日見た弟のすくった水の中に、小さな宇宙があった気がしたんだ。


手の中にこぼれる、うつるせかい。


そして、こぼれたあとにだけ、見えるものもあるのかもしれない。

支援や配慮の世界に触れるとき、私たちは“自分とはちがう誰か”を知ろうとします。

でも、実はそこに映っているのは、自分自身の内側の一部かもしれません。


うつろう世界のなかで、どこかに“とどまる”場所を探す――

弟のすくった水の中にも、そんな祈りのようなものが見えてきます。

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