第147話①『カルマ』
誰かのために何かをする時、
それが“得”なのか“損”なのか、すぐにはわからない。
けれど、その瞬間に見える表情や、ふとこぼれる笑い声が、
後になって“ああ、よかった”と思わせてくれる。
今日もそんな日だった。
玄関の方から足音がして、ふと顔を上げた。
廊下の奥からアスと彼女、それからシンが並んでやって来た。
兄ちゃんと二人で掃除していた僕は、思わず声をあげた。
「…あれ? 三人で来たの?」
「うん。カフェでお茶してた」アスは軽く笑う。
「えー、ウソ! いいな」
思わずむくれると、彼女が微笑んで言った。
「今度はタケルくんも行こうね」
カフェの甘い匂いを想像して、なんだか損した気分になって僕は口をとがらせた。
なんで僕だけ…。
今日の僕は、兄ちゃんと一緒にこの部屋を掃除していただけだったから。
この部屋は、昔兄ちゃんが使っていた部屋。
窓からは午後の光が差し込み、木の床がやわらかく輝いている。
シンが落ち着けるようにと、兄ちゃんと相談して片づけた。
古いソファと低いテーブル、壁際には彼が好きそうな本を並べた小さな棚。
兄ちゃんがシンを見て、にこっとする。
「シンが過ごしやすい部屋、できたよ」
僕はまだ不満顔のまま言った。
「いいな、カフェ。ボクなんて麦茶飲みながら、兄ちゃんとずっと掃除してたんだよ」
アスは軽くうなずき、真面目な顔で言う。
「ありがとう」
「なんかボクだけ損した気分」
兄ちゃんは少し間を置いて、僕の顔を見た。
「…損した、ね」
その言い方が、なんだか意味ありげでちょっとむかつく。
「タケル、世の中ってね、“得”したことも“損”したことも、結局はまわってくるんだよ」
「えー…でも、今は損してるじゃん」
「それは“今”の話だよ。“あと”に返ってくる」
「あとっていつ?」
兄ちゃんは少し笑って、肩をすくめた。
「……いつか」
「いつかって、ずるいよ。明日? 一年後? 大人になってから? そのころもう掃除したこと忘れてるよ」
「そういうものなんだ。カルマって」
「でも今は、カフェのパンケーキ食べたほうが得だよ!カルマなんかより!」
アスがクスッと笑った。
「タケルのそういうとこ好き」
彼女も静かに笑う。
「でも、“いつか”返ってくるって、ちょっと楽しみじゃない?」
「…じゃあ、今のうちにいっぱい損しといたほうが得ってこと?」
兄ちゃんは首を傾げた。
「うーん…まあ、そういう考え方もあるかもしれないね」
その時だった。
ふいに、部屋の隅からケタケタという笑い声が響いた。
見ると、ソファに寝転んだシンが、置いてあった月の本をパラパラめくっている。
ページの中の大きな月の写真を見つけるたびに、声を上げて笑い、指先でそっと紙面をなぞる。
午後の光が、シンの髪とページの白をやわらかく照らしていた。
その様子を見て、僕はつい口にした。
「兄ちゃん…ボク、掃除して…ちょっと良かったかも」
兄ちゃんは、何も言わず、ただやさしく笑った。
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カルマは目に見えない。
でも、確かにここにある。
掃除をした小さな午後が、
月の写真を見て笑うシンの声に変わり、
僕の胸を静かに温めてくれる。
それなら、少しぐらいの“損”も悪くない。
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